復活節第6土曜日 (ヨハ16,23b-28)

「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ヨハ16,23-24

   イエスの名は、魔法の言葉ではありません。つまりイエスの名を唱えるだけで、すべての願いがかなえられるとか、欲しいものを何でも手に入れることができるわけではありません。イエスの名によって祈るとは、イエスが父である神と心を一つにして祈ったように、イエスと心を一つにして祈ることなのです。

私たちは、父である神が私たちのすべての真の必要性を満たしたいと望んでおられることをますます強く信じ、神に信頼することによって、神が私たちの中で、また、私たちを通してますます自由に働き、私たちに関するご自分の計画を実現することができますように祈りましょう。

いのちの源である神よ、
わたしたちがよい業に励み、
み旨を行うよう導いてください。
いつもよりよいものを目指して進み、
主の死と復活の神秘を生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

3月17日 日本の信徒発見の聖母 (ヨハ19、25-27)

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」ヨハ19,25

キリスト者になるとは、何らかの教えを受け入れて、それを基盤にして生きるということではなく、信頼と愛による絆でイエス・キリストと結ばれ、順境にあっても逆境にあっても、この絆を何よりも大事にし、イエスに従って生きることなのです。

その意味で「殉教者」と呼ばれているキリスト者は、死に至るまで教えに誠実であったのではなく、苦しみや死が迫ってもイエス・キリストとの絆を切ることなく、最期までキリストに忠実に従った人のことです。彼らは、何らかの教えにではなく、イエス・キリストに命をささげたということなのです。

十字架のもとに立っていた聖母マリアと他の数人の弟子と同じように、最期まで、イエス・キリストに忠実に従った、多くの殉教者の証しと取り次ぎの祈りに強められて、私たちもどんな状況においてもイエス・キリストと共に生き、最期まで忠実に従うことによって、キリストの証人になり、多くの人々をイエスのもとに導くことができますように祈りましょう。

いつくしみ深い神よ、
あなたの恵みに支えられて、
日本のキリシタンは厳しい迫害に耐え、
七代にわたって信仰を守り抜きました。
この日、サンタ・マリアの導きによって、
長崎でその末えいが発見されたことを喜び祝うわたしたちも、
聖母の祈りに守られて試練に耐え、
力強く信仰の道を歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第3主日・A年 (ヨハ4、5-42)

 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」ヨハ 4,13

人間が何かを求めているというのは、何らかの善が不足しているか、不足しているように感じているということなのです。そのような状態は、一種の苦しみですので、この苦しみをなくすために、この望みを満たそうとしています。私たちは自分の望みを満たすために、普段、持っていないものを手に入れなければならないと思っているのかもしれませんが、体の欲求の場合は、それが事実であっても、心の望みの場合は、そうではないのです。

サマリアの女性が水を飲んでも、また渇くようになったように、私たちは、心の望みを満たすために必要と思うことを手に入れることができたとしても、そして、それによって心の望みを満たしたような気持ちになったとしても、それは、一時的な状態にすぎませんし、私たちは必ず心の渇きを再び感じるようになります。結果的にこの望みは消えないだけではなく、前よりも大きくなっていくのです。

イエスがサマリアの女性に教えてくださったように、生ける水、つまり人間の心の渇きを完全に癒すことのできる水は、外から来るものではなく、人間の内から流れ出るものなのです。ですから、私たちは他の人からいろいろなものをもらったり、他人を利用したりすることによって、この生ける水を汲むことはできません。それは、逆説的なことですが、この水が私たちの心の渇きを癒すために私たちは、他の人々の正当な望み、また、神ご自身の望みを満たすように努める必要があるのです。

サマリアの女性は、イエスの教えを正しく理解し、それを信じたので、今まで頼りにしていた水がめをおいて、町に走り、イエスとの出会いの喜びを他の人と分かち合い、彼らに救い主への道を教えました。彼女は他の人や神を利用しようとする代わりに、奉仕するようになってはじめて、彼女の心の渇きが癒され、イエスの約束が成就されたのです。

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛の業によって、
わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
いつもあわれみをもって助け起こしてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第2主日・A年 (マタ17,1-9)

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」マタ17,4

ペトロにとってキリストの栄光の姿を見ることは、最高の幸福の体験だったでしょう。おそらく、彼が三つの仮小屋を建てる提案をしたのは、この幸せの時を少しでも長くするためだったのではないかと思います。けれども、許可をもらう代わりに、この場所を離れて、イエスに聞き従うように命令されたのです。

喜ばしい時を伸ばしたいという望みは、悪いものではないし、どちらかというと自然なことでしょう。それならどうして、ペトロは、この望みに従うことを許されなかったのでしょうか。このことが分かるためには、まず、人がなぜ喜ばしい時を伸ばしたいのか、なぜ幸せと感じている時を手放したくないのかということについて、考える必要があると思います。

一つの可能な理由とは、今の喜び、今の幸せが最高のもので、これだけで充分、これさえ保つことができれば他に何も要らないという考え方です。けれども、そのような考え方の裏には、大きな心配が隠れている可能性があります。つまり、これ以上に喜ばしいことがあり得ないとか、これ以上に素晴らしいことが手に入れられないというような絶望感なのです。

味わっている喜びや幸福は、自分の働きの結果であるとか、幸運のせいとか、偶然に手に入ったものであると考えている人の場合、以上のような心配は不思議ではないでしょうが、それは、神がくださった賜物であると信じている人の場合には、非常に大きな問題なのです。なぜなら、このような心配は、この人が神の力や愛を信頼していないということを表しているからです。

神には無限の力がありますので、いくら素晴らしい賜物を与えてくださっても、これ以上に素晴らしい賜物を与えることができます。神の愛も無限のものですので、与えた賜物以上に素晴らしいものを与えたいと望んでおられます。けれども、人間は神の力や愛を疑って、心配したり、いただいた賜物に執着したりすることによって、自分の心を閉じてしまいますので、いただいた以上の賜物を受け入れることができなくなるのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

年間第6主日A年 (マタ5,17-37)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」マタ5,17

神は最初から、つまり人間を創造したそのときから、人間のために何を求めておられるかということをはっきりと知っておられました。それはご自分自身が完全であられるように、人間が完全な者となること(マタ5,48)、神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い者になること(ルカ6,36)でした。 そして、ご自分の望みに従って、最初から、人間をその目的に向かって導いておられたのです。

けれども人間は、神の導きに従って生きることによって段々と成長し、自分の完成に近づく代わりに、神に逆らって自分勝手な生き方をすることによって堕落し、神が求めた姿と正反対の姿になってしまったのです。幸いにも神は、人間に関するご自分の望みをあきらめず、この堕落状態を出発点にして、人間の現状とその力に合わせて導きを与え、人間を育成し続けておられたのです。聖書において、この育成の歴史が見受けられます。

自分の仲間の一人が殺されたら、殺人に関わった人の仲間の何人かを殺す人に、「目には目を、 歯には歯を」という掟を与えることによって、神はこの人の正義感を少し高めました。それから神は、殺すこと自体や人の体を傷つけることを禁じて、不正な行いによって人に損害をもたらさないようにと、それから悪口などによって人の名誉や感情を傷つけないようにと教えてくださいました。人間が成長したら、自分がしてほしくないことを他人にしないだけではなく、もっと積極的に、してほしいと思うことを、自ら人のためにするように導いてくださいました。次の段階としては、隣人を愛すること、自分を迫害する人を祝福すること、最終的に敵さえも愛することを、神は教えてくださったのです。

神が私たちに求める生き方は、どんな状況においても可能であるということを、イエス・キリストが示してくださいました。私たちは、自分の弱さや限界を認めながらも、創造主である神ご自身の力を頼りにして、イエスと共に歩むことによって、父である神が私たちに求めておられる生き方を身に付けることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。