3月17日 日本の信徒発見の聖母 (ヨハ19、25-27)

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」ヨハ19,25

キリスト者になるとは、何らかの教えを受け入れて、それを基盤にして生きるということではなく、信頼と愛による絆でイエス・キリストと結ばれ、順境にあっても逆境にあっても、この絆を何よりも大事にし、イエスに従って生きることなのです。

その意味で「殉教者」と呼ばれているキリスト者は、死に至るまで教えに誠実であったのではなく、苦しみや死が迫ってもイエス・キリストとの絆を切ることなく、最期までキリストに忠実に従った人のことです。彼らは、何らかの教えにではなく、イエス・キリストに命をささげたということなのです。

十字架のもとに立っていた聖母マリアと他の数人の弟子と同じように、最期まで、イエス・キリストに忠実に従った、多くの殉教者の証しと取り次ぎの祈りに強められて、私たちもどんな状況においてもイエス・キリストと共に生き、最期まで忠実に従うことによって、キリストの証人になり、多くの人々をイエスのもとに導くことができますように祈りましょう。

いつくしみ深い神よ、
あなたの恵みに支えられて、
日本のキリシタンは厳しい迫害に耐え、
七代にわたって信仰を守り抜きました。
この日、サンタ・マリアの導きによって、
長崎でその末えいが発見されたことを喜び祝うわたしたちも、
聖母の祈りに守られて試練に耐え、
力強く信仰の道を歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第3主日・A年 (ヨハ4、5-42)

 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」ヨハ 4,13

人間が何かを求めているというのは、何らかの善が不足しているか、不足しているように感じているということなのです。そのような状態は、一種の苦しみですので、この苦しみをなくすために、この望みを満たそうとしています。私たちは自分の望みを満たすために、普段、持っていないものを手に入れなければならないと思っているのかもしれませんが、体の欲求の場合は、それが事実であっても、心の望みの場合は、そうではないのです。

サマリアの女性が水を飲んでも、また渇くようになったように、私たちは、心の望みを満たすために必要と思うことを手に入れることができたとしても、そして、それによって心の望みを満たしたような気持ちになったとしても、それは、一時的な状態にすぎませんし、私たちは必ず心の渇きを再び感じるようになります。結果的にこの望みは消えないだけではなく、前よりも大きくなっていくのです。

イエスがサマリアの女性に教えてくださったように、生ける水、つまり人間の心の渇きを完全に癒すことのできる水は、外から来るものではなく、人間の内から流れ出るものなのです。ですから、私たちは他の人からいろいろなものをもらったり、他人を利用したりすることによって、この生ける水を汲むことはできません。それは、逆説的なことですが、この水が私たちの心の渇きを癒すために私たちは、他の人々の正当な望み、また、神ご自身の望みを満たすように努める必要があるのです。

サマリアの女性は、イエスの教えを正しく理解し、それを信じたので、今まで頼りにしていた水がめをおいて、町に走り、イエスとの出会いの喜びを他の人と分かち合い、彼らに救い主への道を教えました。彼女は他の人や神を利用しようとする代わりに、奉仕するようになってはじめて、彼女の心の渇きが癒され、イエスの約束が成就されたのです。

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛の業によって、
わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
いつもあわれみをもって助け起こしてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第2主日・A年 (マタ17,1-9)

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」マタ17,4

ペトロにとってキリストの栄光の姿を見ることは、最高の幸福の体験だったでしょう。おそらく、彼が三つの仮小屋を建てる提案をしたのは、この幸せの時を少しでも長くするためだったのではないかと思います。けれども、許可をもらう代わりに、この場所を離れて、イエスに聞き従うように命令されたのです。

喜ばしい時を伸ばしたいという望みは、悪いものではないし、どちらかというと自然なことでしょう。それならどうして、ペトロは、この望みに従うことを許されなかったのでしょうか。このことが分かるためには、まず、人がなぜ喜ばしい時を伸ばしたいのか、なぜ幸せと感じている時を手放したくないのかということについて、考える必要があると思います。

一つの可能な理由とは、今の喜び、今の幸せが最高のもので、これだけで充分、これさえ保つことができれば他に何も要らないという考え方です。けれども、そのような考え方の裏には、大きな心配が隠れている可能性があります。つまり、これ以上に喜ばしいことがあり得ないとか、これ以上に素晴らしいことが手に入れられないというような絶望感なのです。

味わっている喜びや幸福は、自分の働きの結果であるとか、幸運のせいとか、偶然に手に入ったものであると考えている人の場合、以上のような心配は不思議ではないでしょうが、それは、神がくださった賜物であると信じている人の場合には、非常に大きな問題なのです。なぜなら、このような心配は、この人が神の力や愛を信頼していないということを表しているからです。

神には無限の力がありますので、いくら素晴らしい賜物を与えてくださっても、これ以上に素晴らしい賜物を与えることができます。神の愛も無限のものですので、与えた賜物以上に素晴らしいものを与えたいと望んでおられます。けれども、人間は神の力や愛を疑って、心配したり、いただいた賜物に執着したりすることによって、自分の心を閉じてしまいますので、いただいた以上の賜物を受け入れることができなくなるのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

年間第6主日A年 (マタ5,17-37)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」マタ5,17

神は最初から、つまり人間を創造したそのときから、人間のために何を求めておられるかということをはっきりと知っておられました。それはご自分自身が完全であられるように、人間が完全な者となること(マタ5,48)、神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い者になること(ルカ6,36)でした。 そして、ご自分の望みに従って、最初から、人間をその目的に向かって導いておられたのです。

けれども人間は、神の導きに従って生きることによって段々と成長し、自分の完成に近づく代わりに、神に逆らって自分勝手な生き方をすることによって堕落し、神が求めた姿と正反対の姿になってしまったのです。幸いにも神は、人間に関するご自分の望みをあきらめず、この堕落状態を出発点にして、人間の現状とその力に合わせて導きを与え、人間を育成し続けておられたのです。聖書において、この育成の歴史が見受けられます。

自分の仲間の一人が殺されたら、殺人に関わった人の仲間の何人かを殺す人に、「目には目を、 歯には歯を」という掟を与えることによって、神はこの人の正義感を少し高めました。それから神は、殺すこと自体や人の体を傷つけることを禁じて、不正な行いによって人に損害をもたらさないようにと、それから悪口などによって人の名誉や感情を傷つけないようにと教えてくださいました。人間が成長したら、自分がしてほしくないことを他人にしないだけではなく、もっと積極的に、してほしいと思うことを、自ら人のためにするように導いてくださいました。次の段階としては、隣人を愛すること、自分を迫害する人を祝福すること、最終的に敵さえも愛することを、神は教えてくださったのです。

神が私たちに求める生き方は、どんな状況においても可能であるということを、イエス・キリストが示してくださいました。私たちは、自分の弱さや限界を認めながらも、創造主である神ご自身の力を頼りにして、イエスと共に歩むことによって、父である神が私たちに求めておられる生き方を身に付けることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第5主日・A年 (マタ5,13-16)

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタ5,16

イエスは全力を尽くして、苦しんでいる人を助けていましたが、そのような行いによって、この人々の目に見える問題を解決しようとしたのではありません。イエスが何よりも求めたのは、ご自分の行いを見た人々が「天の父をあがめるようになる」ことでした。けれどもそれは、イエスが人の不幸を利用して、ご自分の宗教的な目標を達成しようとしたわけではありません。

イエスが、飢えているすべての人を食べさせても、全世界のすべての病人を癒しても、満腹した人は、再び空腹になりましたし、癒された人はまた病気になって、やがて死んだに違いありません。もし、イエスがそのような働きによって人間の問題を解決しようとしたならば、その活動は大失敗で終わっただけではなく、最初から失敗で終わるに決まっていたと言えると思います。

考えて見れば、病人を癒すために、その病気の症状をなくすのではなく、病気の原因をなくす必要があります。人間の病気や死、飢え渇きや他のすべての苦しみは、人間の不幸の原因や、人間の最も大きな問題というよりも、ただの症状なのです。人間のあらゆる苦しみの最終的な原因というのは、愛と命の源であり人間の幸福の唯一の源である神を、知らないことなのです。神を知らない人は、神を恐れたり神を無視したりして、神との正しくない関係に生きています。この人は自分の力だけに頼って、自分を守ろうとしたり幸福を手に入れようとしたりして、そんなつもりがなくても、他人と自分を傷つけ、ますます神から離れ、永遠に続く孤独と死に向かって生きているのです。

人間のすべての苦しみの真の解決の方法、しかも、決定的な解決の方法は、父である神に立ち戻り、神との正しい関係に生きることであるということを、イエスは知っておられましたので、ご自分の行いによって、何よりも神の真の「姿」を現そうとして、すべての人々を神のもとに引き寄せようとしていたわけです。

信じる者の力である神よ、
尽きることのないいつくしみのうちに
わたしたちを守ってください。
あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、
いつもあなたの力によって強められますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

2月5日 日本26聖人殉教者 (マタ28,16-20)

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。』」マタ28,18

ご自分の死と復活によって死に打ち勝ち、「天と地の一切の権能を授かっている」イエス・キリストが与えてくださった、復活と永遠の命の約束は、それを信じる人々に、あらゆる悪や苦しみがもたらす恐れよりも大きな希望、しかも、この世に限らずに、死を超えて永遠に至る希望をもたらすのです。

日本26聖人殉教者の模範と取り次ぎの祈りによって支えられ、イエスの約束がもたらす希望に強められて、どんな状況においてもイエス・キリストに忠実に従い、与えられた使命を果たすことによって、多くの人々をイエスのもとに導き、共に神の愛のうちに永遠に生きることができますように祈りましょう。

信じる者の力である神よ、あなたは日本 26 聖人を、 
十字架の死を通して永遠のいのちにお召しになりました。 
この殉教者の取次ぎを願うわたしたちが、 
死に至るまで力強くあかしすることができますように。 
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、 
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第2主日A年 (ヨハ1,29-34)

「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」ヨハ1,33

洗礼者ヨハネは自分の使命を果たしてイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介しました。この言葉は、救い主であるイエス自身の使命を表します。イエス・キリストが神によってこの世に遣わされたのは、すべての人々の罪を贖い、それを取り除くためなのです。これこそ福音、「喜ばしい知らせ」ですが、それを聞いても、全然喜ばない人が、特に現代は非常に大勢いるようです。おそらく、この人たちは、別にそれ程悪いことをしていないし、他の多くの人よりも良い人間ですので、罪を取り除く救い主を全く必要としていないと考えているのではないかと思います。

けれども、罪を取り除く救い主を必要としているのは、強盗や殺人などのような犯罪を犯したりする人だけなのでしょうか。このことが分かるためには、イエスの使命を描く洗礼者ヨハネが神から言われた言葉の意味、つまり、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉の意味を理解する必要があります。

誰かに聖霊によって洗礼を授けるというのは、この人を神の愛と神の命にあずからせることですので、イエスが取り除く罪とは、犯罪のことではなく、愛と命の源である神から離れて生きている状態のことなのです。したがって、罪を取り除くということは、神から離れて生きている人を神のもとに導くこと、神と和解させ、神との正しい関係をつくることなのです。

人間は、愛と命の源である神との正しい関係に入らない限り、いろいろな恐れや心配、また、執着や心の傷などによって左右されるし、愛に生きることができませんので、たとえ何の犯罪も犯したことがなくても、自分の心の最も深い望みに従って真の愛に生きることのできない人こそ、罪を取り除く救い主、すなわち、イエス・キリストを必要としているわけです。

天地万物を治められる神よ、
あなたの民の祈りをいつくしみをもって聞き入れ、
世界に平和への道を示してください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

 

主の洗礼(A年) (マタ3,13-17)

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」マタ3,15

人類の歴史、特にイスラエル人の歴史が示している通りに、人間は、自分の力だけでは神の愛に愛を以て応えることができないのです。結果として、人間は神との一致という自分の存在の目的に達することができないわけです。 神が御ひとり子をそのような人々のところにお遣わしになったのは、彼が人間になって、つまり人間性を受け入れることによってすべての人と結ばれ、全人類の名によって、罪の暗闇の中から神の愛に愛を以て応えるためなのです。これによって神と人類との間の和解が実現されること、つまり永遠に続く新しい契約が結ばれることが、計画されていたのです。

同時にイエスが、神の愛に忠実に生きることによって、あらゆる罪を赦すことのできる神の愛、また、人間をあらゆる罪の奴隷状態から解放することのできる神の愛を、すべての人々に現すことを神は望まれましたので、イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた瞬間は、神がイエスを罪人の手に引き渡す瞬間でもあったと言えます。

イエスにとって洗礼を受けることは、この使命を果たすために、全人類の罪の結果を受け入れなければならないということ、それから預言者イザヤが預言した通りに、罪人の手の中に苦しむ僕(しもべ)にならなければならないということを、はっきりと意識しながらこの使命を受け入れる瞬間であったとも言えるのです。この意味で水の洗礼は、血の洗礼、つまり十字架の死を先取りしているわけです。

イエスがご自分の命を掛けて成し遂げてくださった救いの業を感謝し、イエスが現わしてくださった神の愛に信頼しながら、イエスの模範と助けに支えられて、父である神から与えられた使命を果たすことによって、神の心に適う人となり、神の愛と命にあずかることができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスにあなたは聖霊を注ぎ、
愛する子であることを示してくださいました。
洗礼によって新たに生まれ、
あなたの子どもとされたわたしたちが、
いつもみ心に従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。