待降節第4主日A年 (マタ1,18-24)

「夫ヨセフは正しい人であった。」マタ1,19

順境の時に、他の人に対して丁寧な態度をとり、正しいと思うような行動をとるのは割合に簡単なことですが、大きな問題や困難に直面している時には、それは随分難しくなります。けれども、私たちは、順境においてよりも逆境において、より正確に自分が本当に正しい人であるかどうかが分かります。なぜなら、その時には私たちの心の真の思いや望みによって動かされていることがよくあるからです。

聖ヨセフは本当に正しい人でした。彼は順境においても、逆境においても、正しいことを求めてそれを行いました。自分の花嫁となるマリアが妊娠しているという事実を知ったヨセフが、マリアに裏切られたと思っても当然のことでしょう。当時の法律によって、傷つけられた自分の名誉を回復するために、ヨセフにはマリアを石で打ち殺す権利がありました。けれども、ヨセフは自分の名誉ではなく、マリアの善を優先して考えましたので、自分の評判が悪くなっても、マリアを自由な身とするために離縁することにしたのです。

ヨセフがどんな状況においても正しいことができたのは、神を固く信頼していたからです。いつも一緒にいてくださる神こそ、自分を守り助けてくださると確信していたので、自分で自分を守る必要がない、ただ正しいこと、つまり神が示してくださることを行えば十分だと信じていたわけです。

このように神を信頼していたヨセフは、逆に神に信頼されました。神は彼にご自分の子であるイエスとイエスの母マリアのことを任せて、彼らを守り世話する使命を与えてくださいました。それによってヨセフは、救い主の協力者になったと同時に、イエスと共に生きることによって救いにあずかるようになったのです。

さて、私たちはヨセフに倣って、どんな状況においても神を信頼して、私たちのもとに来られるイエスを受け入れることによって、神の国の平和と喜びにあずかることができますように祈りましょう。

恵み豊かな父よ、
わたしたもの心にいつくしみを注いでください。
みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、
御子の苦しみと死を通して
復活の栄光にあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

待降節第3主日A年 (マタ11,2-11)

「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」マタ11,4-6

誰しも喜ぶことがあると思いますが、その喜びについて考えたことがありますか。たとえば、自分が何のときに喜ぶのか、何のことで喜ぶのか、つまり、自分の喜びの原因は何であるか、自分を喜ばせるものは何であるかということについて考えたことがありますか。

恐らく、原因に基づいて喜びを二つのグループに分けることができると思います。一つは、自分の期待や望みが適えられることから沸き起こる喜びです。もう一つは、何か思いもかけない、美しいものとの出会いや、自分が想像も期待もしなかった素晴らしい贈り物をいただくことがもたらす喜びです。

第一のグループの喜びを味わうためには、自分の期待や望みを満たせばいいわけですので、この喜びを得るために自分から進んで何らかの働きをすることができます。けれども、第二のグループの喜びを味わうためにできることは、自分の想像力や望みによって視野が狭くならないように注意しながら、意外な贈り物を見失わないために絶えず目覚めていて、忍耐強く待つことだけなのです。

第一のグループの喜びはある程度まで人間が管理できるものですので、人気のあるものですが、第二のグループの喜びは全く管理のできないものですので、それを求める人は少ないでしょう。けれども、第一のグループの喜びは、私たちの想像力や能力に制限されているものですし、それを探求している人たちは、他の人を操ったり利用したりして、他人を傷つけることがあり、最終的に自分を傷つけることが沢山あります。しかし、第二のグループの喜びは、私たちの想像力を超えるものであり、全能の神が与えてくださる無限のものなので、誰にも害を与えることがなく、人間の心を広くし、人間を高めるものなのです。

さて、私たちの救い主イエス・キリストに信頼して、イエスが私たちに与えたい贈り物を受け入れることができるように、私たちは、自分たちが求めているものにこだわることなく、心を開いて、目を覚まして、忍耐強く待つことができますように祈りましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第2主日A年 (マタ3,1-12)

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」マタ3,2

人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、私たちの現状ではないでしょうか。そういった現状の要因はいろいろあるのでしょうが、その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、いわんや賢くなることもないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、全能者である神の助けを、私たちは必要としているということなのです。

自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、最も必要な回心であり真の知恵なのです。

父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。

恵み豊かな神よ、
御子を迎えに急ぐわたしたちが、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第1主日A年 (マタ24,37-44)

「イエスが言われた。『あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」マタ24,44

砂漠の真ん中で箱舟を作っていたノアがいろいろな人に嘲笑されましたが、ノアはこの人たちの笑いを気にせずに、神の言葉をひたすら信頼して、洪水に備え準備し続けました。神の言葉を無視して、自分の欲望や望みにだけ従って生きていた人にとって、洪水は滅びの瞬間になりましたが、ノアにとっては同じ洪水が神の言葉の実現と救いの時となったのです。

キリスト者である私たちは、ノアと同じように他の人が全然考えていない出来事のために準備をしています。この出来事というのは、キリストの再臨です。キリストの再臨のために準備するということは、決して箱舟のようなものを作ることではありませんが、ノアが箱舟を作ることによって他の人を驚かせたように、私たちもこの準備をすることによって他の人を驚かせることがあるでしょう。なぜなら、キリスト者がキリストの来臨のために準備するに当たって、「仕えられるためではなく、仕えるために」来られて、何よりも神の国とその義を求めるように教えてくださったキリストに従って、また、神と隣人だけではなく、敵さえをも愛するように教えてくださったキリストに倣って生きることによって、キリスト者は与えられている使命を果たしながら、キリストとの絆を深めるので、図らずもキリスト者の生き方は、現在流行している生き方や常識に逆らうものになっているからです。

お金や権力を手に入れて、自分の欲望や望みを満たすことによって人生を楽しむことが、何よりも大切なことであると考えている人にとって、キリスト者の生活は愚かなものに見えるかもしれません。しかし、この生き方こそが、どんな状況においても消えることのない希望、喜びと平和に満ちた生き方であると同時に、人間の最もすぐれた能力、つまり、愛する能力を発展させることによって、愛の完成へと導く生き方なのです。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第26主日C年 (ルカ16,19-31) 

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」2コリ8,9

お金そのものは、決して悪いものではありませんし、お金を全然持っていないよりは、持っていた方がいいに決まっています。けれども、お金を持っている時、特に必要以上に持っている時には、それに伴う危険性を意識して、害を受けないように気を付ける必要があると思います。

お金に関する危険性は沢山あるでしょうが、その内の一つについてだけ考えてみたいと思います。お金は、それを持つ人にいろいろな可能性を与えますが、その全ての可能性がこの人を生かすようなもので、この人を本当の幸せに近づかせるようなものであるわけではありません。そのために、いろいろな可能性の中から、正しい可能性を選ぶための確かな基準が必要です。

このような基準がなければ、お金を持っている人は、心の本当の飢え渇きを満たすために必要なものというよりも、単にお金で買えるようなものを求めるようになり、お金で買うもので満たすことのできない心の望みを無視し、自分の欲望を優先してしまう恐れがあるのです。

そうなると、お金で買えるようなもので欲望を満たし、一時的に満足を得て喜びを感じることができますし、暫くの間、飢え渇く心の叫びが聞こえなくなります。けれども、このような気持ちが過ぎたら、満たされたはずの欲望は前よりも大きくなりますし、心の飢え渇きも大きくなるのです。そのために、少しでも満足や喜びを楽しめるように、また、心の叫びを聞こえなくするように、ますます沢山のものが必要になりますので、このように生きている人は、贅沢しても沢山のものを集めても、本当の豊かさ、つまり、心を満たし人間に真の幸福を与える豊かさを、知らずに生きることになるわけです。そのような態度を変えない人は、集めたものを何時か必ず失いますが、心の飢え渇きは永遠に満たされないままに残るのです。

裕福な人も貧しい人も、イエスの模範や教えを基準にして生きることによって、心が満たされ、本当に豊かで幸せな人生を送ることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

聖家族C年 (ルカ2,41-52)

「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」ルカ2,48-49

イエスがその生みの母であったマリアに向かって語った言葉、例えば、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マコ3,33-35)という言葉を読むと、イエスは孝行息子ではなかったとか、血の繋がりを大事にされなかったというような印象を受ける人がいるようです。

しかし、もしそれが事実であったならば、イエスは34年間の生涯の内の30年間も家庭生活をされたでしょうか。決してそうではないはずです。やはり、人生の凡そ90%を家族にささげたイエスは、家族の生活は非常に大事であるということを示したと思います。

考えてみれば、非常に多くの場合、血の繋がりがあっても、犬猿の仲の関係に生きる人が多くいます。自分の野心や欲望を優先して自分の子どもに対する責任を怠ったり、また、子どもを虐待したりする親もいれば、自分の両親を敬わずに、ただいろいろな援助や資金の源としてしか見ていない子どもも沢山います。家族の中でいろいろな問題が世代から世代へと伝わることも珍しくないのです。

イエスが聖母マリアに語った言葉によって、血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は私たちの幸福を妬むような恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にすることではなく、神から真の愛をいただくことによって、血族関係を含めて、あらゆる人間関係を癒していただくということなのです。

恵み豊かな父よ、あなたは、
聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、
愛のきずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第4主日C年 (ルカ1,39-45)

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1,45

待降節がまだ終わっていないのに、もうすでにいろいろなところでクリスマスの飾り付けがされていて、クリスマスの雰囲気を味わうことができます。おそらくクリスマスの飾り付けさえすれば、場合によって、クリスマスプレゼントを買い、クリスマス会やクリスマスのミサを予定に入れさえしたら、クリスマスの準備ができたと思う人がいるかもしれません。けれども、クリスマスの準備は本当にこれだけで十分なのでしょうか。主を迎えるために相応しい準備とは、どういうことであるかということが分かるためには、聖母マリアを見つめる必要があると思います。

マリアは天使が伝えた神の言葉を受け入れて、救い主の母になるということを信じましたが、自分の体を特別に大切にしたり、自分の家をきれいにしたり、必要なものを揃えたりして、生まれてくるイエスのために周りの環境を準備したのではありません。天使のお告げの中で聞いたもう一つのメッセージ、つまり年寄りの親類のエリサベトが妊娠しているというメッセージを優先したかのように、急いでエリサベトのところへ行って、数ヶ月の間彼女に奉仕していたのです。

主のはしためであったマリアは、人に仕えることこそが、神に仕えることであると知っていました。自分が神の子の母になるということが分かっても、偉そうにしたり他の人から奉仕を求めたりしたのではなく、かえって、以前以上にもっと力を尽くして他の人に奉仕していたのです。マリアはエリサベトに仕えることによって、まだ生まれていなかったイエスにも仕え、その誕生のために準備していたとさえ言えると思います。

私たちもマリアの模範に倣って、待降節の残りの時間を特に隣人愛の実践のために使うならば、クリスマスの準備を完成させるに至るに違いないと思います。

恵み豊かな父よ、
わたしたもの心にいつくしみを注いでください。
みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、
御子の苦しみと死を通して復活の栄光にあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第3主日C年 (ルカ3,10-18)

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ3,15

民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

人間は、それをはっきり意識していなくても、誰かに意図的に接しようとしているとき、必ずこの人に関して何か期待を持っているものなのです。非常に多くの場合、この期待は出会った人自身や、この人との出会いを評価する基準になっています。この人が、私たちの期待通りに話したり、期待通りに振る舞ったりしたならば、私たちは満足や喜びを感じて、この人を高く評価します。しかし、客観的にこの人が私たちに良いことをしても、それが私たちの期待したことでないならば、がっかりしますし、この人やこの人がしてくれた良いことを受け入れることができないだけではなく、この人を非難したり攻撃したりすることさえあります。このような精神の働きに従って、当時の人々がイエスを排斥してしまったのは、イエスが悪いことをしたからではなく、この人たちがメシアに対して持っていた期待にイエスが応えず、彼らの思う通りには振る舞わなかったからなのです。

私たちは、この人たちと同じような過ちを犯さないよう、キリストを迎え入れる準備のために与えられている待降節の後半を生かし、自分の心を支配しているいろいろな思い込みや勝手な期待、また、余計な執着や拘り等を手放して、私たちのために最善のことを求め最善のことを行ってくださるイエス・キリストを、ありのままに受け入れることができますように祈りましょう。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしがちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第2主日C年 (ルカ3,1-6)

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」ルカ3,3

「悔い改め」という日本語に翻訳されている元々のギリシア語の「メタノイア」は、自分が目指す目的や、今までの自分の行いについての考え方を、変えるということを意味する言葉です。どうしてそのような変化が、救い主を迎えるために必要なのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、罪人、すなわち創造主である神が示す目的ではなく、それと違う目的を目指す人に向かって、メタノイアを呼び掛けていました。確かに、多くの人が創造主である神が示してくださる道よりも、良い道を知っていると思って、神の導きを無視して、自分勝手に決めた道を歩んでいます。そのような生き方の結果を正直に見つめることができたならば、それは自分が期待したものと全く違っているということに、誰でも気が付くはずです。残念ながら、このような事実を認めて今の道を諦めて新しい道を探す代わりに、殆どの人たちが自分自身を騙して、後もう少し進めばきっと求めているものが手に入るはずだと自分に言い聞かせているようです。

おそらく、人々がこのように自分を騙して、間違った道を歩み続けるのは、他の道は存在しないと心の奥深いところで思っているからです。もしこの思いをはっきりと意識したならば、絶望してしまって生きることができなくなったことでしょう。

確かに、人間は自分だけに頼っている時、他の道を見出すことができないし、その状態は絶望的なものでもあるでしょうが、洗礼者ヨハネは、悔い改めるように呼びかけたと同時に、救い主の到来と共に生まれる新しい可能性をも宣べ伝えていました。私たちは、救い主であるイエスにおいて希望を見出し、曲がった道を離れて、キリストが示してくださる道を真っすぐに歩むことができますように祈りましょう。

永遠の父よ、
御子キリストを待ち望む心をお与えください。
いつも目ざめて祈り、主が来られる時、
喜び迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第4土曜日 (マコ6,30-34)

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」マコ6,34

羊は非常に弱くて無力な動物ですので、羊を牧場や泉に導き、狼などから守ってくれる羊飼いがいなければ、生きることができないようです。人間は、「羊飼い」、つまり正しい導き手がいなくても生きることができるでしょうが、その時に手に入るものは人の心の飢え渇きを癒すことができないし、自分の欲望や自分を悪用しようとする不正の導き手に従えば、自分の滅びに向かって歩むことになるのです。

人間の心を完全に満たすことのできる、愛と命の源である神のもとへと導くこと、また、人間をあらゆる危険や悪から守ること、それができるのは、イエス・キリストだけであるという事実をますます多くの人々が悟り、イエスに信頼して従うことによって、ますます豊かに生き、さらに人間の最高の幸福である永遠の命に入ることができますように祈りましょう。

万物を治められる神よ、
世界の歩みを力強く導いてください。
現代に生きる教会が人々に仕え、
平和のために尽くすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。