12月1日-12月7日(49週)

1 日(日) 待降節第1主日(A年)

2日(月) 待降節第1月曜日

3日(火) 日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭(祝)

4日(水) 待降節第1水曜日

    (聖ヨハネ -ダマスコ- 司祭教会博士)

5日(木) 待降節第1木曜日

6日(金) 待降節第1金曜日

    (聖ニコラオ司教)

7日(土) 聖アンブロジオ司教教会博士(記)

待降節第1主日A年 (マタ24,37-44)

「イエスが言われた。『あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」マタ24,44

砂漠の真ん中で箱舟を作っていたノアがいろいろな人に嘲笑されましたが、ノアはこの人たちの笑いを気にせずに、神の言葉をひたすら信頼して、洪水に備え準備し続けました。神の言葉を無視して、自分の欲望や望みにだけ従って生きていた人にとって、洪水は滅びの瞬間になりましたが、ノアにとっては同じ洪水が神の言葉の実現と救いの時となったのです。

キリスト者である私たちは、ノアと同じように他の人が全然考えていない出来事のために準備をしています。この出来事というのは、キリストの再臨です。キリストの再臨のために準備するということは、決して箱舟のようなものを作ることではありませんが、ノアが箱舟を作ることによって他の人を驚かせたように、私たちもこの準備をすることによって他の人を驚かせることがあるでしょう。なぜなら、キリスト者がキリストの来臨のために準備するに当たって、「仕えられるためではなく、仕えるために」来られて、何よりも神の国とその義を求めるように教えてくださったキリストに従って、また、神と隣人だけではなく、敵さえをも愛するように教えてくださったキリストに倣って生きることによって、キリスト者は与えられている使命を果たしながら、キリストとの絆を深めるので、図らずもキリスト者の生き方は、現在流行している生き方や常識に逆らうものになっているからです。

お金や権力を手に入れて、自分の欲望や望みを満たすことによって人生を楽しむことが、何よりも大切なことであると考えている人にとって、キリスト者の生活は愚かなものに見えるかもしれません。しかし、この生き方こそが、どんな状況においても消えることのない希望、喜びと平和に満ちた生き方であると同時に、人間の最もすぐれた能力、つまり、愛する能力を発展させることによって、愛の完成へと導く生き方なのです。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

王であるキリスト・年間第34主日C年 (ルカ23,35-43)

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ルカ23,39-41

聖書が教える通り、人間の苦しみの最終的な原因というのは、罪です。罪を犯すことによって人間は、神と人、人と人、自然と人の調和を破壊したため、この世に死とこの死の先取りである苦しみが入り込みました。この世に生まれる私たちは、何も悪いことをしなくても、この世の苦しみにあずかるし、悪を行うことによって、自分自身の苦しみと他の人、他の生き物の苦しみを増してしまいます。努力すれば、自分自身の苦しみや他の人、他の生き物の苦しみを少し和らげることや、少し減らすことができても、それ以上のことは何をしても、元の調和を回復することも、苦しみを取り消すこともできません。やがて、罪の最終的な結果である死を迎えることになります。

私たちと違って、神の御ひとり子には選択肢がありました。人間にならないこと、苦しみに満ちた世界に生まれないことを選ぶことができましたが、神の御ひとり子は人間になって、この世に生まれ、私たちの苦しい現状にあずかることを選びました。今日読まれる福音が描いている場面が、このことを良く表しています。

イエス・キリストは自ら進んで、苦しんでいる私たちと共にいてくださり、私たちの苦しみにあずかっています。しかし、それだけではなく、イエスはご自分に心を開く人に、自分の罪や自分の限界を素直に認めた上で助けを求める人に、楽園(パラダイス)を約束します。このパラダイスというのは、ただ一時的な苦しみからの解放ではなく、元の調和よりも素晴らしい状態、つまり愛による神と一体になることなのです。

「天と地の一切の権能を授かっている」(マタ28,18)キリストの約束を頼りにして、どんな苦しい状況にあっても、絶望に陥ることなく、希望をもって、イエスとの繋がりを保つことができますように祈りたいと思います。

全能永遠の神よ、
あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、
すべてが一つに集められるようお定めになりました。
造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、
栄光を終わりなくたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第33主日C年 (ルカ21,5-19)

「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」ルカ21,12-13

世の終わりがいつ来るのかということは誰にも分かりませんが、私たちが体験している争い、暴動、戦争、天災などのような苦しみが、世の終わりまで続くということは確かです。ですから、世界の終りがいつ来るのかということよりも、いろいろな苦しみと悪に満たされたこの世界においてどのように生きればいいか、それに関してどんな態度をとればいいかという問題が、現実的で重要です。

ある人は、全力を尽くして、世界にある悪と戦います。残念ながら、多くの場合この戦いは間違った考え方(イデオロギー)に基づいて、それにおいて不正な方法が用いられている結果、多くの犠牲者が生み出されます。それと対照的に、他の人は絶望に陥って、何もしないか、この世に生きること自体を諦めてしまいます。問題が見えないように幻想に逃避する人とか、安心感を得るように迷信を選ぶ人もいれば、苦しみを避け、なるべく快楽を増やすように努める人もいます。けれども、それと全く異なる態度、全く異なる生き方もあります。それはイエス・キリストが私たちに教え、ご自分の人生によって示してくださった生き方なのです。

この世にある悪を滅ぼす力、私たちをあらゆる苦しみから解放する力を持つのは、この世界の創造主である神のみだという確信を持ったイエスは、この神の望みに従って生きること、神の救いの計画に協力することが一番賢明で、悪の問題に関して一番効果的な生き方であると私たちに教えてくださいました。

愛である神の望みに従って、悪との戦いにおいてイエスが用いた唯一の方法というのは、あらゆる人、それは正しい人であっても、悪を行って他人やイエスご自身に苦しみをもたらす人であっても、すべての人を愛することでした。

私たちは、イエスに倣って、どんな状況においても、どんな人のためにも善を尽くすことによって、悪からですら善を引き出すことのできる神の愛を証しすることができますように祈りましょう。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第32主日C年 (ルカ20,27-38)

「イエスは言われた。『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」ルカ20,38

知恵の書に書いてある通り、「神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り」(知2,23-24)ました。命の源である神から離れた人間は死ぬようになりましたが、幸いに神はご自分の最初の望みを変えることなく、キリストの愛の奉献によって、罪の結果である死に打ち勝ち、キリストの復活にあずかることによって、人間に再び永遠の命の可能性を与えてくださったのです。

キリストが与えてくださった復活の約束は、私たちに大きな希望を与えています。この希望を抱く人は、この地上で人間らしく生き、豊かな人生を送ることができます。というのは、聖パウロが語るように、「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(1コリ15,32)と言っても、おかしくないからです。すなわち、復活の希望を持たない人たちにとって、この世の命がすべてになっていますので、この命を楽しむことが何よりも大事なことになっても不思議ではないからです。しかし、このように生きている人は、他の人を愛することができない(この人たちが言っている「愛」というのは、自分の楽しみのために他人を利用するにすぎないことです)ので、人間らしく生きることや、本当に豊かな人生を送ることができないのです。

キリストの約束に基づいて復活の希望を抱く人にとって、一番大切なのは、自分の楽しみではなく、キリストに忠実に生きることです。そのためにこの人は、いろいろな苦しみを受け入れることができますし、自分の利益のために他人を利用するのではなく、他の人の善を求めて、必要に応じていろいろな犠牲を払いながらも、他の人を支え、他の人に奉仕することができます。すなわち、この人は、イエスと同じように、愛に生きることができますので、人間らしく生き、豊かな人生を送るようになるわけです。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第31主日C年 (ルカ19,1-10)

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」ルカ19,9-10

恐らく、非常に多くの人と同じように、ザアカイは人生においてお金と権力が一番重要なものであると思っていたでしょう。そのために、一生懸命に努力して、徴税人の頭にも金持ちにもなった、つまり求めていた権力とお金を手に入れることができました。けれども、期待したような満足や幸福を得ることができず、彼の心はますます飢え渇いていったのです。

ザアカイは、自分が心の中で何を求めているかということが分からなかったけれども、イエスについて話しを聞いたときに、心の中で何かが響いて、希望が生まれたため、「イエスがどんな人か」を見たいと望むようになりました。障害が現れてもザアカイは諦めず、この望みに従いました。そして結果的に、ザアカイが全く想像も期待もしなかったことが起こったのです。彼はイエスがどんな人かを見ることができただけでなく、イエスと出会い、イエスの無条件の愛を体験することによって、真に豊かな人生を始めることもできたのです。

心の中で求めたのは、無条件の愛であったと分かったザアカイは、今までの彼の人生の中心にあった権力やお金が彼に幸福を与える代わりに、彼から幸福を奪い取るもの、心を満たす代わりに、心を空っぽにするものであるという事実に気が付きました。そして、イエスから頂いた無条件の愛という最高の富は、それに執着したり、誰かにそれを奪われないように気を付けたりすることによってではなく、それを出会う人と分かち合うことによって増した上に、彼の心を少しずつ満たしていくものでもあるということが分かったのです。

人間の心を満たすのは、手に入れた富や権力、成功や楽しみではなく、自分が持っているものを他の人と分かち合うこと、自分の力や才能を他の人のために使うことによって愛を実践することであるという事実を、ザアカイの経験から学び、そのように生きることによって、本当に豊かな人生を送ることができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第30主日C年 (ルカ18,9-14)

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカ18,14

人の期待を満たしたら、この人が私たちに対して好意的になって、私たちがこの人から求めているものをもらう可能性が高くなるというような人間関係の現実に慣れている多くの人が、神もまた同じように働いておられるのだと思いがちです。けれども、ファリサイ派の人と徴税人についてのたとえによって、イエスが私たちにそのようなイメージと全く異なる働きをなさる神の姿を現してくださいます。というのは、もし、神が多くの人が考えているように働かれたならば、義とされたのは、徴税人ではなくファリサイ派の人でしたから。なぜなら、罪を犯していた徴税人ではなく、律法に従って生きようとしていたファリサイ派の人の方が、掟が表している神の望みを満たそうとしたからです。

このたとえによってイエスが私たちに教えてくださっているのは、神にとって大切なのは、人間の過去ではなく、人間の現在、つまり人間が今まで何をしてきたかとか、どのように生きていたかということではなく、今までの生き方によってどんな人になっているか、特に、どれほど神に関して心を開いているかということなのです。

神が示してくださった道を歩むことによって、神に近づくこと、神をますます強く信頼して、神に対して心をますます広く開けることは理想ですが、たとえのファリサイ派の人のように、正しい生活を送ることによって傲慢になり、心を閉ざす恐れがあります。逆に、いろいろな過ちを犯して、苦しい体験をすることによって、自分の弱さと神のいつくしみと助けの必要性を認識して、神に対して心を開く可能性があるのです。

罪を犯すことによって人は命の源である神から離れて、自分の滅びに向かって行きますので、絶対にこの道をお勧めすることはできませんが、キリストの教えに基づく生き方にも、傲慢になる危険性があるということを意識しながら、どんな道を歩んでも自分の功績ではなく、神のいつくしみ深い愛に頼ることができますように祈りましょう。

恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第29主日C年 (ルカ18,1-8)

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ルカ18,1

主イエスが教えてくださった通り、父である神は私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存じです(マタ 6,5-8)。そして、父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ5,45)、つまり、どんな人にも、言ってみれば、祈る人にも、祈らない人にも、必要なものを与えてくださいます。それなら、私たちはなぜ祈らなければならない、しかも「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18,1)のでしょうか。

多くの場合、私たちが神に何かを願い求めても、使徒ヤコブとヨハネのように、「自分が何を願っているか、分かっていない」(マタ20,22)上に、「自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるから」(ヤコ4,2-3)、願い求めているものを与えられないのです。

イエスの祈り方を見ると、祈りとは、無から宇宙を造ることのできる全能の神でありながら、すべての人々を愛し、すべての人のために善のみを求めておられるアッバと、つまりいつくしみ深い父と対話することなのです。祈りの目的は、神から何かをいただくことよりも、神との完全な一致を目指して、神との交わりを深めることなのです。

私たちは、イエスのように父である神に信頼を寄せて、開かれた心を持ってこの対話に取り組むならば、自分自身に対する神の愛をますます強く自覚できるだけではなく、自分自身の心の叫び、自分自身の最も深い望み、つまり自分に本当に必要なものを知るようになります。さらに、自分の最も深い望みは、自分に関する神の望みと同じものであるということが分かれば、神との対話の中で、自分の恐れや欲望や願いをありのまま表した後に、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マコ14,36)というイエスの祈りの言葉を付け加えるようになり、神が与えてくださる賜物を受け、神の導きに従うことができます。結果的に、私たちの祈りがいつも適えられるようになりますし、私たちの神との交わりが深まるのです。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第28主日C年 (ルカ17,11-19)

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」ルカ17,15-16

感謝の念は、人間が他の人から何らかの形の助けを受けた際、例えば、何らかの奉仕をしてもらったとか、何らかの良いことを言ってもらったとか、必要としていた物をもらった際に浮かぶ感情なのです。しかし、この感情が起こるかどうかは、また、その感情の程度は、私たちがこの助けをどのように受け止めるかということに依るのです。

相手からいただいたものの実際の価値や、そのものに対する私たちの客観的な評価よりも、助けてくださった相手の動機や努力についての私たちの考えの方が、感謝の念が起こるかどうかに関して決定的なものです。たとえ、相手から頂いたものや助けは、大きな価値のあるものであると考えても、この人がこのようにしたのは、自分の義務だったからとか、他に選択がなかったからとか、それとも、自分のために何らかの利益を求めたからとかと考えたならば、感謝の念が浮かばないでしょう。けれども、頂いたものや助けの価値がそれほど大きくなくても、相手が全く自由に、何らかの隠した目的のためではなく、完全に無償で、無条件で私たちを助けてくださったという確信が強ければ強いほど、感謝の気持ちは大きくなるものです。私たちを助けることは、助けてくださった人にとって簡単なことではなく、相手により大きな努力や犠牲を求めたものであった、つまり、相手が私たちを助けるために、より大きな代価を支払わなければならなかったということが分かれば、感謝の気持ちがさらに強くなるのです。

考えてみれば、神は、いつも私たちのために最善の働きをされるし、最高の価値のある賜物を与えてくださいます。それをなさるのは、そうする義務があるからではなく、全く自由に、また、完全に無条件で、ただ私たちを愛しておられるがゆえに、私たちの善、私たちの幸福を求めておられるからです。私たちに対する神の愛には、どれほど大きな苦しみが伴っているか、つまり、神が私たちを助けるのに、どれほど大きな代価を支払っておられるかということが分かるためには、十字架に付けられた御子、イエス・キリストの姿を見るだけで十分なのです。

私たちは、神から与えられている助けの真の価値とその性質を見出し、神の愛の偉大さを意識することによって、大きな感謝と喜びに満たされて、神のもとに近づき、神との交わりを深めることができますように祈りましょう。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

 

 

10月6日-10月12日(41週)

6日(日)年間第27主日

7日(月)ロザリオの聖母(記)

8日(火)年間第27火曜日

9日(水)年間第27水曜日

    (聖ディオニジオ司教と同志殉教者、聖ヨハネ・レオナルディ司祭)

10日(木)年間第27木曜日

11日(金)年間第27金曜日

    (聖ヨハネ23世教皇)

12日(土)年間第27土曜日

    (聖母の土曜日)