待降節第2主日C年 (ルカ3,1-6)

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」ルカ3,3

「悔い改め」という日本語に翻訳されている元々のギリシア語の「メタノイア」は、自分が目指す目的や、今までの自分の行いについての考え方を、変えるということを意味する言葉です。どうしてそのような変化が、救い主を迎えるために必要なのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、罪人、すなわち創造主である神が示す目的ではなく、それと違う目的を目指す人に向かって、メタノイアを呼び掛けていました。確かに、多くの人が創造主である神が示してくださる道よりも、良い道を知っていると思って、神の導きを無視して、自分勝手に決めた道を歩んでいます。そのような生き方の結果を正直に見つめることができたならば、それは自分が期待したものと全く違っているということに、誰でも気が付くはずです。残念ながら、このような事実を認めて今の道を諦めて新しい道を探す代わりに、殆どの人たちが自分自身を騙して、後もう少し進めばきっと求めているものが手に入るはずだと自分に言い聞かせているようです。

おそらく、人々がこのように自分を騙して、間違った道を歩み続けるのは、他の道は存在しないと心の奥深いところで思っているからです。もしこの思いをはっきりと意識したならば、絶望してしまって生きることができなくなったことでしょう。

確かに、人間は自分だけに頼っている時、他の道を見出すことができないし、その状態は絶望的なものでもあるでしょうが、洗礼者ヨハネは、悔い改めるように呼びかけたと同時に、救い主の到来と共に生まれる新しい可能性をも宣べ伝えていました。私たちは、救い主であるイエスにおいて希望を見出し、曲がった道を離れて、キリストが示してくださる道を真っすぐに歩むことができますように祈りましょう。

永遠の父よ、
御子キリストを待ち望む心をお与えください。
いつも目ざめて祈り、主が来られる時、
喜び迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

12月3日 日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭 (マコ16,15-20)

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』」マコ16,15

2000年の間、どんな時代にも聖フランシスコ・ザビエルと同じようにイエスの言葉に従って、福音を宣べ伝えていた人々がいましたので、キリストの教会が全世界に広まって、私たちも神の愛についての良い知らせを聞いて、それを受け入れ、父である神の愛と命にあずかるようになったのです。

今までの教会の宣教活動を神に感謝しながら、これからの時代にも、聖フランシスコ・ザビエルのような多くの熱心な宣教師が生まれ、神が教会を通して働き続け、全人類のための救いの計画を実現していきますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたは、聖フランシスコーザビエルの宣教を通して、
アジアの民をみもとに集めてくださいました。
わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、
救いの喜びを多くの人と分かち合うことがでぎますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

待降節第1主日C年 (ルカ21,25-28,34-36)

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」ルカ21,34

人間は、愛である神に象って、神との愛の交わりに生きるために創造されていますので、いくら努力しても、たとえ全世界を手に入れたとしても、この世のもので自分の心の飢え渇きを満たすことはできません。この世のものが満たすことのできない望みは、人間の偉大さを表していると同時に、人間にとって大きな苦しみの原因にもなっているのです。

この苦しみの原因を知らずに、心の飢え渇きを満たすことのできる方を知らない人たちは、この苦しみを少しでも和らげるために、自分の力によって満たすことのできる望みや欲望を、全力を尽くして満たそうとしていることがよくあるようです。確かに、そのような小さな望みや欲望を満たした瞬間ですらも、人間は喜びや満足感を味わいますので、暫くの間安らぎを楽しむことができます。けれども、最初はより簡単に満たすことのできた望みや欲望も段々大きくなるし、それにますます強く左右されてしまうようになります。また、イエスが言われた通りに、この人の心は段々と鈍くなります。

心の鈍くなった人は、心の飢え渇きを満たすことのできる方と出会う時、この方が自分にとって危険な存在であると思ったりするため、この方を喜んで受け入れる代わりに、怖くなって、この方を攻撃するか、この方から逃げてしまいます。こうして、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうわけです

イエスこそが、私たちの心の飢え渇きを満たすことのできる方であると信じる私たちは、心が鈍くならないように罪を避けて、いつも目覚め、つまりイエスから与えられた使命を果たしながら、大きな希望の内にイエスを待ち望んで、いつでもイエスを喜んで迎え入れることができますように祈りましょう。

全能の、神である父よ、
救い主を待ち望む心を呼びさましてください。
わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、
キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

王であるキリスト・年間第34主日B年 (ヨハ18,33b-37)

 「イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」ヨハ18,37

「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マコ10,45)と言われたイエスは、王と呼ばれるよりも、羊飼い、しかも、自分の羊のために命を与える良い羊飼いと呼ばれることを好まれたようです。典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日を祝う際に、それを忘れてはいけないと思います。

やはり今日読まれる福音の中でイエスは、自分自身がこの世の王たちと全く異なっているということを言われています。一人ひとりのために幸福を求めて、この幸福へと導くことのできるイエスは、この世の王や他の支配者と違って、人の自由意志を尊重しておられるので、暴力を用いて人に服従を強いるようなことを絶対にされません。イエスの唯一の「武器」というのは、真理について証しをすることなのです。

真理について証しをするために生まれたイエスは、自分の力に頼って自分の努力によって幸せになろうとしている人に、その努力の空しさや危険性を示してくださいます。と同時に、永遠に続く幸福の唯一の源である神のもとに人を引き寄せるために、神の愛の偉大さをご自分の言葉と行いによって現してくださるのです。

自分たちについての真理を示されたために、イエスに対して怒りを覚えて、神の愛に心を開くことのできなかった人たちは、イエスを十字架に付けました。十字架に付けられていたイエスは、全く無力に見えていましたし、その活動も失敗に終わったように見えましたが、不思議にもそのとき、イエスは一番力強く、真理について証しをしていたのです。

十字架に付けられているイエスの姿において、ますます多くの人々が、自分の罪についての真理、また、父である神の愛についての真理を見出すことができますように。そして悔い改めて、イエスのもとに近づくことによって、永遠の命の源である神のもとに近づくことができますように祈りたいと思います。

全能永遠の神よ、
あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、
すべてが一つに集められるようお定めになりました。
造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、
栄光を終わりなくたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第33主日B年 (マコ13,24-32)

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」マコ13,31

典礼暦の終りが近づくと、私たちはいつも同じ事実を思い起こさせられます。それは何かというと、私たちが今生きているこの世界は、いつまでもそのまま続くものではないということなのです。言い換えれば、何時か必ずこの世の終わりが来るということなのです。世界の終末があまりにも抽象的な発想であると感じるならば、この世のことの代わりに自分の人生のことを考えてもいいと思います。

この世がいつか終わるという事実、また、この世における自分の人生も必ず終わるという事実は、当然と言えば当然ですが、なぜか多くの人がそれを忘れがちです。もしかしたら、それは多くの人がこの世、またはこの世の人生にのみ希望をおいて生きていますから、この世の終わり、または、自分の人生の終わりを意識すると、自分の希望には何も根拠がないということや自分の無力、自分の努力の空しさがはっきりと見えて、非常に恐ろしくなるからではないかと思います。

けれども、この世ではなく、キリストに希望をおく人にとって、世の終わりを思い出すことは、恐ろしいことではなく、逆に喜びをもたらすものなのです。なぜなら、世の終わりは、キリストの再臨、また、キリストのすべての言葉(約束)の実現、つまり創造のわざの完成を意味するからです。

世の終わり、または、この世の人生の終わりについて考える時に、どんな感情が浮かびますか。あなたの希望は、キリストであるのでしょうか、それとも何か別のものなのでしょうか。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第32主日B年 (マコ12,38-44)

「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。』」マコ12,38-40

歴史において非常に多くの場合、いろいろな悪事を働いた人、例えば権力や富を得るために他人の名誉や評判を汚したり、争いの相手を殺したり、他人のものを奪い取ったりした人は、大勢の人々によって偉大な人物として考えられて、人々がその人に従ったことがあったでしょう。このような世間において偉くなりたい人、少なくとも偉い者として認められたい人は、イエスの時代の律法学者と同じように、偉そうな格好をしたり、他人の背中を踏んで少しでも高い社会的な地位を得ようとしたり、詐欺を働いて富を増やしたり、ありとあらゆる手段、多くの場合は不正な手段を用いて、より大きな権力を手に入れようとしたりしています。

そのような人がいても仕方がないかもしれませんが、特に寂しいことというのは、そのような人に逆らう人よりも、この人の狙い通りに動く人が沢山いるということなのです。もしかして、この人たちは、無慈悲で冷酷な人の敵になるよりも、その味方や協力者になった方が自分の益になると思うのかもしれませんが、その思いの反して、結果的に意外に大きな被害を受けても自分自身を失っても、驚くべきことではないでしょう。

人の心を見て、何よりも、善意、誠実、愛と正義を評価しておられるイエスに従おうと思うならば、この世において平等の仲間として認められず、相手にされないだけではなく、軽蔑されることもあるかも知れないという覚悟を持つ必要があると思います。そのために、やはりこの世の権威や名誉、また、この世が与える特権や富などよりも、キリスト自身との絆を大事にし、キリストの愛を一番優れた宝として認める必要があると思います。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第31主日B年  (マコ12,28b-34)

 「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」マコ12,29-31

人間は愛に生きるために創造されましたので、愛に生きている時だけ幸せです。けれども、同時に人間は非常に弱い存在であって、恐れや欲望などによって束縛されていますので、いくら努力しても愛に生きることができませんし、誰かに愛されても、この愛を滅ぼしてしまうことも珍しくありません。幸いにも、愛は人間の努力の結果ではなく、人間を創造してくださった神、愛そのものである神が与えてくださる賜物なのです。しかも、愛は神が全ての人に与えたいと望んでおられる賜物なのです。

神は人間に掟を与えることによって、ご自分のもとへの道、つまり愛の源への道を示してくださいました。残念ながら、イスラエルの歴史、また、私たちの個人的な歴史が示している通りに、人間は正しい道、つまり、自分の最高の幸福である愛への道を知らされても、またこの道を歩み出しても、なかなか最後まで辿って行くことができません。

しかし神は、愛への道を知らせるに止まったのではなく、ご自分の御ひとり子をこの世にお遣わしにもなりました。神の御ひとり子であるイエス・キリストは、愛に根差したご自分の生き方によって、またご自分の受難、十字架上の死と復活によって、愛に生きることの素晴らしさ、神ご自身の愛の偉大さと力強さを現して、人々をご自分のもとへと同時に、愛の源である神のもとへと引き寄せながら、愛の源への道を歩むために必要な力を与えてくださるのです。

ますます多くの人々がイエス・キリストを知り、信仰と信頼によってイエスと結ばれ、いろいろな束縛から解放されて、心の中で求めている完全な愛に向かって生きることができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第29主日B年 (マコ10,35-45)

「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」ヘブ4,16

人間は何かの素晴らしい体験をして喜びで満たされたら、自然にこの体験を他の人に知らせたい、なるべく多くの人がこの喜びにあずかって欲しいと望むでしょう。そして、この望み通りに自分の喜びを他の人と分かち合うならば、この喜びが弱くなるどころか、ますます大きくなるのではないでしょうか。

キリスト者である私たちは、福音を宣べ伝える使命を与えられていますが、キリストとの出会いが私たちに大きな喜びをもたらし、福音が文字通りに喜ばしい知らせになるならば、私たちは何も言われなくても、自発的にその喜びを広めたいと望むようになります。この望みに従えば、与えられた使命を無理せずに果たすことができるのです。

私のキリストとの出会いから、もう30年以上経ちましたが、その時の喜びはまだ消えていませんし、今でも、私の大きな原動力になっています。その時、一番嬉しかったのは、イエスがただの福音書の主人公ではなく、本当に生きておられる現実的な方であるとの事実を発見したということでした。この体験によって、イエスは実際にいらっしゃると実感しただけではなく、イエスは私を愛し、値打ちがない私に対しても愛を求めておられるということ、またご自分に従ってほしいと、無力な私の協力を求めておられるということを、言葉で言われたよりも、はっきりと理解しました。心臓が破れそうになったほど大きな驚きと喜び、深い平安で満たされたこのイエスとの出会いが、いつまでも続くことを望んでいました。結果として、イエスの素晴らしさ、イエスの愛、イエスが下さる平和と喜びを、なるべく多くの人に知っていただきたいと思うようになり、宣教師になったわけです。

キリストとの出会いに伴ったあなた自身の喜びは、どんなものだったのでしょうか。今はどうなっていますか。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第28主日B年 (マコ10,17-30)

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」マコ10,17

宇宙万物を創造してくださった神は、すべての人の救いを求めておられます。つまり、神はすべての人々に永遠の命を与えたいと望んでおられます。ですから、永遠の命を受け継いで、最高に幸せになることこそが、私たちの存在の目的であり、その意義であると言えるのです。従って、永遠の命や幸福を追求することは、人間にとって本能的なものであり、一番大切なことなのです。

けれども、人間は永遠の命や幸福を求めても、具体的に何を求めているかということが分かっていません。そのために、一人ひとりは自分の経験や他の人の言葉に基づいて、幸せになるためにどうしても必要だと思うようになったものを、探し求めています。けれども、私たちは自分の経験を正しく理解して、正しい結論を出すとも限りません。また、悪意がなくても、私たちと同じように限界があり、間違った考え方を持つ人がいたり、自分の利益を求めて意識的に私たちを騙す人もいますので、他の人の言葉は必ずしも真実であるとは言えないでしょう。そのために、自分が考えたことや言われたことに従って、間違った方向に向かうことになり得るし、それをそのまま受け入れるのは賢くないでしょう。

幸いに、私たちのために最高の幸福を求めておられる神は、私たちをそのような暗闇に残すことなく、永遠の命や永遠の命への道を知っている方、また、この道を歩むために必要な力を与えることのできる方を、私たちのところに送ってくださいました。この方とは、言うまでもなく、イエス・キリストなのです。イエス・キリストは、私たちを永遠の命へと導くために、神ご自身がお遣わしになった唯一の方ですので、永遠の命についてイエスに教えていただき、イエス・キリストが示してくださる道を歩むより外に、賢い生き方があるのでしょうか。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第27主日B年 (マコ10,2-16)

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」マコ10,9

十数年前に台湾にいた時に、昔の中国では、「三位一体」のことを「三私一愛」というように書いたという話を聞きました。この表現は非常に気に入りました。なぜかと言うとこの表現は、三位一体の神の神秘の一番重要なところを表していると思ったからです。御父と御子と聖霊という三位(三つのペルソナ)は、互いに完全に愛しておられる、つまり互いに与え合い、互いに受け入れ合うために完全に一つの愛として、一体となっているわけです。

三位一体の神秘は、私たちに愛について大事なことを教えています。つまり、愛は二つ以上のものたちが一体になるほど、強くて堅い絆であるということなのです。神にかたどって、神の似姿として創造された私たちは、三位一体の愛の交わりにあずかるように招かれています。実は、この招きというのは、愛によって神と一つになるための招待なのです。これは不思議なことでありながら、これこそ良いお知らせ、福音なのです。漢字で遊んでみるならば、イエスが宣べ伝えた神の国のことを、「唯一神無数人一愛」(唯一の神が、無数の人々と、一つの愛として一体になる)というように表すことができるのではないかと思います。

イエスが結婚の誓約、つまり、愛の誓約によって一体となった夫婦の一致を、誰よりも大切にしているのは、この一致は地上の問題、つまり、ただ一時的なことではなく、永遠に繋がるものであるからです。言い換えれば、いろいろな問題や困難を乗り越えながら、力を合わせて完全な一致を目指す夫婦の生活は、最終的に神との一致への一番普遍的で、神ご自身が定めた道であるからです。私たちを唯一の神との一致に導くために人間になり、酷い受難を受け、ご自分の命をささげてくださったイエスが、神との一致への道から誰にも逸れて欲しくないと思っておられるというのは、不思議ではないでしょう。

全能永遠の神よ、
あなたの恵みは限りなく、
人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。
わたしたちを罪の重荷から解放し、
まことの自由に導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。