三位一体の主日C年 (ヨハ16,12-15)

「(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」ヨハ16,14-15

神の内面的な命を現す三位一体の神秘は、人間による考察の結論ではなく、神ご自身がご自分を啓示することによって、人間に知らせたことなのです。

元々イスラエル人たちは、他の民族と同じように沢山の神々を信じていました。けれども、この民の歴史の中で特別な働きをされた神は、ご自分が唯一の神、全世界の創造主、つまり、あらゆる存在と命の源である父であることを知らせてくださいました。この世に来られた御ひとり子を通して神は、無条件に、また無限に私たちを愛しておられる救い主として、ご自分を現してくださいました。私たちを最後まで愛し、ご自分の命をささげることによって、ご自分の使命を果たして、御父のもとに戻られた御子は、御父の霊であり、また、ご自分の霊である聖霊を遣わしてくださいました。現在、聖霊は教会の中で、また、教会を通して働いて、イエス・キリストが成し遂げられた救いのわざを完成に導く方として、ご自分を現してくださっています。このように、救いの歴史の中で、神は、ご自分自身を唯一の神として、と同時に、御父と御子と聖霊という三つのお方(ペルソナ)として、啓示してくださったわけです。

三つの別々のペルソナが唯一の神であることは、確かに非常に大きな神秘であって、私たちの理解を超えるものですが、この神秘から少なくとも次のようなことが分かると思います。つまり、神は唯一の存在でありますが、孤独な存在ではないこと、また、ご自分のためにだけ生きておられるのではなく、他者のために、他のペルソナのために生きておられる方であるということなどです。聖ヨハネが書き記した通りに(1ヨハ4,16)、神は愛です。つまり神は、私たちを愛しておられる方であるのみならず、愛そのものなのです。ですから、三位一体の神秘は、実は、愛の神秘なのです。この神秘から、完全に愛し合う複数のペルソナは、一体になるほど完全に一致することが分かります。ですから、愛し合う人にとって、死によっても破られない絆となっている愛とは、それを完成させることによって、完全な一致をもたらすものであると言えるわけです。

聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝するわたしたちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イェスーキリストによって。アーメン。

 

6月11日 聖バルナバ使徒 (マタ10,7-13)

「(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」マタ10,13

イエス・キリストは、命をかけて救いのわざを成し遂げてくださいましたが、救いの恵みを全世界に広めることを、使徒たちをはじめ、救いの恵みを受けたすべての人々にゆだねてくださいました。私たちが、福音を知るようになって、今、救いの恵みにあずかることができるのは、2000年に渡って多くの人々が、イエスから与えられた使命を果たしてきたからです。
私たちがこの人たちを思い起こし、彼らの人生の賜物に感謝しながら、受け入れた恵みに忠実に生きることによって、ますます多くの人々に福音を伝えることができますように祈りましょう。

すべての人の父である神よ、
あなたは、異邦人の回心のために、
聖霊と信仰に満たされた聖バルナバをお選びになりました。
使徒の熱意と模範にならい、わたしたちも、キリストの福音を
ことばと行いを通して宣べ伝えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

6月10日 教会の母聖マリア (ヨハ19,25-34)

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」ヨハ 19:26-27

私たちは、自分のお母さんを選ぶことができませんが、御ひとり子は、人間になる前にご自分のお母さんとしてマリアをお選ばびになりました。マリアは、その使命を完全に果たしたからこそ、イエスは、マリアのもとで、成長し、完全な人間になられたのです。

イエス・キリストは、ご自分のためだけではなく、ご自分のからだである教会のため、つまり、この教会であるキリスト者一人ひとりのためにもマリアをお母さんとしてお選びになったのですから、私たちには、産みのお母さん以外に、もう一人お母さんがいることを常に意識し、マリアに守られながら、マリアの模範と導きに従って生きることによって、神の愛の内に成長して、完全な愛の交わりにたどり着くことができますように祈りましょう。

あわれみ深い父である神よ、
十字架につけられた御ひとり子は、
ご自分の母であるおとめ聖マリアを、
わたしたちの母として与えてくださいました。
マリアの愛に助けられ、あなたの教会が、
日々、信じる人々の誕生と成長を喜び、
母としてすべての民の家族を迎え入れることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

聖霊降臨の主日C年 (ヨハ14,15-16.23b-26)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハ14,15-16

イエス・キリストの霊を受ける人は、イエス・キリストと同じように愛に生きる能力を受け入れます。この能力を発展させ、実らせるために、愛を実践する必要があります。

愛を実践する努力は、愛の能力を発展させ、自分の中にある愛を成長させるために、必要であるだけではなく、聖霊の働きを受けるためにも、結果的に、私たちの愛が完成されるためにも不可欠なものなのです。

というのは、聖霊は、ただの力や能力だけではなく、父である神とイエス・キリストと同じように生きた神であり、ペルソナ(位格)でであるからです。聖霊は、私たちを愛してくださる方、私たちの愛を求めておられる方なのです。すべての人々がその望みに応えて、愛に生きるように、聖霊は常に働いてくださいますが、私たちの自由意志を尊重しておられますので、私たちの承諾がなければ、私たちの内で自由に働くことができないのです。

愛に生きるための私たちの努力は、私たちが求めるような成功を収めなくても、聖霊の導きに従いたいという私たちの望みの表現でありますので、必ず、聖霊との交わりを深めるものになっています。同時に、この努力は、聖霊の働きを承諾する表現にもなっていますので、私たちが愛を実践するように努力すればするほど、聖霊がますます自由に、ますます力強く私たちの中で働くことができるのです。

私たちの努力の結果というよりも、聖霊の働きの結果として、私たちは、愛に生きることを不可能にするいろいろな束縛から自由になり、少しずつイエス・キリストが愛したように、愛するようになりますし、イエス・キリストご自身の姿に変えられて行くのです。

すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

主の昇天 C年 (ルカ24,46-53)

「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」ルカ24,46-47

使徒たちと他の弟子たちは、イエスを愛していたし、イエスに大きな希望をかけていたので、イエスが亡くなった時に、イエスを失ってしまい、二度と会うことがないと思って、絶望に陥るほど、悲しくなったのです。

幸いなことに彼らの絶望的な状態は、長く続きませんでした。三日後にイエスが復活されましたので、彼らの悲しみは、大きな喜びに変わったのです。また、彼らはこの体験によって、非常に大事なことを実感しました。すなわち、死さえも、彼らをイエスの愛から引き離すことができないことと、イエスが与えてくださった約束は、実現することの不可能なように見えても、イエスには、この約束を実現する力があるということでした。

イエスの昇天も、弟子たちにとって悲しいことでしたが、イエスの復活の体験によって、今の別れはこの前のイエスの死による別離とは、まったく異なるものでした。今、弟子たちは、イエスの言葉を信じて、イエスが与えてくださった約束は必ず実現されるという確信を持っていました。そのために、昇天による別離は悲しみをもたらしても、絶望にはなっていませんでした。逆に、彼らの心は、大きな希望と平和で満たされていたのです。

イエスが弟子たちに約束してくださったのは、 父である神の家で、彼らのために場所を用意すること、彼らを迎えに来ることと、いつまでも共にいること(ヨハ 14,2)、それから、聖霊、つまりご自分の霊を弟子たちに送ってくださる(ヨハ14,26)ということでした。

イエスが約束通りに送ってくださった聖霊を受けた弟子たちは、イエスの姿が見えなくても、イエスとの愛の交わり、しかも前よりも深い交わりの内に生きることができるようになりました。また、イエスの声が聞こえなくても、イエスの導きに従って生きるように、しかも、前よりも忠実に従って生きるようになったのです。

イエスの霊のおかげで、弟子たちは、イエスから与えられた使命を果たしながら、イエスとの関係を深めることができました。これによって使徒たちは、イエスとの決定的な再会のために、そして、イエスとの完全な一致と同時に、父である神との完全な一致であるイエスとの関係の完成のために、準備をすることができたわけです。

全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、
苦しみと死を通して栄光に高め、
新しい天と地を開いてくださいました。
主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。
キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
ともに永遠のいのちに入らせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

 

復活節第6主日C年 (ヨハ14,23-29)

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハ14,27

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」というイエスの言葉は、ミサが行われる度に唱えられるほど重要なものです。この言葉を語られた後にイエスは、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14,27)という言葉を付け加えて、自分が与える平和と一般的に考えられている平和とは、違うものであると強調されたのです。

ある国語事典によれば、平和とは、「心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活ができる状態」です。考えてみれば、そのような平和を実現するためには、悪い行い、他人を悲しませ、傷付けるような行いを避けるだけで十分です。それは簡単に見えるかもしれませんが、人類はそのような平和さえもなかなか実現できないのです。歴史を見れば誰でも分かることですが、自分の幸福だけを求めている人は、自分が弱い時、相手と争うことが自分の損失になるだろうと思う時、悪いことをするのは諦めて、以上の意味での平和を保つように努力しますが、相手より強くなって、相手を攻めることが自分の利益になると思う時には、平和をいとも簡単に破ります。

イエスが与えてくださる平和とは、シャローム、すなわち人間の完全な幸福の状態です。この平和を実現するためにイエスは、私たちを利己心から解放し、神と他の人々との正しい関係に導いてくださいます。正しい関係というのは、相手に悪いことをしないだけではなく、相手を尊敬すること、相手の善を求めて、そのために積極的に力を尽くすこと、すなわち相手を愛することなのです。

人々は神と他の人々との愛によって結ばれる時だけ、すべての人々が心の中で求めている平和、しかも永遠に続く平和が実現されるのです。この恵みを常に願い求めましょう。

全能の、神である父よ、
復活された主イエスの記念を真心こめて祝います。
この喜びを、
わたしたちが日々の生活の中に保つことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第5主日C年 (ヨハ13,31-33a.34-35)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハ13,34

殆どの人は、自分の人生において何か足りないとか、自分の心が何かに飢え渇いていると感じても、それが具体的にどんなものであるのかが分からないようです。そのために、いろいろな物を追求しますが、どんなものを手に入れても、なかなか満足しないのです。人間は愛によって神と結ばれて、いつまでも神の命と至福にあずかるために創造されましたので、愛に生きていない限り、決して満たされることもなく、心が飢え渇き続けるのです。

けれども、自分の心が満たされるために愛が必要であると分かっても、愛とは何であるかが分からない人が殆どです。例外もあるでしょうが、私たちが子どもの時から体験している「愛」というのは、私たちを愛してほしいと思う人の期待に、応える代わりにもらう報いのようなものです。私たちが言われたことに聞き従ったり、良く勉強したり、スポーツが上手くできたり、親切であったり、お金や他のものを貸したりするとき、それで喜んだ人にほめられたり大事にされたりする時に、愛されているように感じるのではないでしょうか。そのような「愛」を体験して来た人は、自分を喜ばせる人に対して好意を持ったり、この人に優しくしたりする時、この人を愛していると思うのでしょうが、それは悪いことではなくても、私たちが心の奥底で求めている愛ではないのです。

本当の愛を知りたいならば、この愛に生きたイエス・キリストを見つめる必要があります。イエスが示した通りに、真の愛とは、無償で、無条件に相手のために真の善を行うことです。本当に愛する人は、それが自分の喜びになっている時だけではなく、苦しみになっている時でさえも善を行い続けるし、相手を高めるために自分の時間や力だけではなく、必要に応じて自分の命までささげます。確かに、自分がこのように愛されたら素晴らしいことです。けれども不思議なことに、人間の心が満たされるのは、人間がこのように愛されている時ではなく、誰かをこのように愛している時だけなのです。なぜなら、このように愛することによってだけ、私たちは私たちの人生の目的である神と一体になるからです。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第4主日Ⅽ年     (ヨハ10,27-30)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ヨハ10,27

イエスが私たちを父のもとに導いてくださいますが、私たちを導こうとして、私たちに呼び掛けるのはイエスだけではなく、他にも多くの人がいます。ですから、私たちは実際にイエスに従うために、まずイエスの声を聞き分ける必要があるのです。いろいろな雑音で満たされている現在の世界に生きて、イエスの声を聞き分けるためには、やはり、神の言葉である聖書を読むことによって、イエスの声に耳を慣らす必要があると思います。

けれども、イエスの声を聞き分けることが大事であっても、実際にイエスに従うためには、それだけでは十分ではありません。イエスに従うために何よりも必要なのは、父である神のもとに近づきたいという望みと、イエスは本当に私たちを父である神のもとに導くことや、私たちに必要な力を与え、あらゆる危険から守ることができると信じて、イエスに信頼することなのです。

確かに、以上の望みや、信仰と信頼は、恵みですので、まずそれを願い求める必要がありますが、この恵みを受け入れるために、イエスと二人切りの静かな時間を過ごすことや、諸秘跡においてイエスと出会うこと、それから、イエスの体である教会の生活に参加すること、さらに今の自分の力が許す限りイエスの教えを実行することが、非常に重要なことになるのです。

イエスが復活されたと信じるのは、イエスが死者の中から立ち上がったことを認めるだけではなく、現在も生きておられるイエスと共に歩み、イエスの導きに従うことなのです。私たちは、イエスが死に打ち勝ったと認めることによってではなく、実際にイエスの導きに従うことによって父である神のもとに近づき、イエスの勝利と復活の栄光にあずかることができるのです。

全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、
わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。
キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、
聖人とともに喜びを分かつことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第3主日C年 (ヨハ21,1-19)

「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」ヨハ 21,18

多くの人が相手のとがをゆるすということは、相手の弱さや相手が行った悪に目をつぶって、見えない振りをしたり、それを忘れたりすることや、仕方がないからと思って悪いことを我慢することや、相手の行為が悪かったにもかかわらず、それを正しいものや良いものとして認め、その人を無罪にすることであると考えているようです。その考えが正しければ、ゆるすことは結果的に、相手にそのまま生きる許可を与えることになり、相手の成長を止めることになるでしょう。

復活されたキリストは、ご自分を裏切ったペトロに現れ、彼に彼の罪を認めさせてから、イエスが集めた人々を導くという使命を再び与えてくださいました。そして、ペトロがイエスに従い、この使命を果たすならば、つまりイエスと共に生きるならば、自分の弱さや罪から解放されて、愛において成長し、心の望み通りに、イエスと同じように完全に愛するようになるということを約束してくださったのです。

ペトロに対するイエスの態度を見ると、ゆるすということは、悪かったことを悪かったこととしてはっきりと認めた上に、相手を否定せずに、相手に対して希望を持って信頼しつづけること、また、その人の成長を信じて、この成長を支えることであるということが分かります。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。