8月20日 年間第20主日A年 (マタ15,21-28)

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」マタ15,28

イエスの当時のユダヤ人たちは、異邦人たちがけがれた者で、神に近づくのに相応しくないし、祝福や恵みを願う権利もないと思っていました。けれども、考えてみれば実際に、完全に清い、つまり罪のない者で、神に近づくのに相応しくて、神から祝福や恵みを頂く権利のある人は、ユダヤ人を含めて誰一人としていないのです。

「婦人よ」と呼ばれた「カナンの女」は、自分の身分をはっきりと意識していたようです。なぜなら、彼女の立場をはっきりと表すイエスの言葉を侮辱として受け入れずに、何の権利もない人間として、ただイエスのいつくしみだけを頼りにして、愛する娘のために、謙虚にしかも忍耐強く、イエスの助けを願い続けたからです。

私たちは、命と愛の源であると同時に、永遠に続く最高の幸福の源である神に近づきたいならば、この女性と同じように、無限で絶対的な存在である神、宇宙万物の創造主であり、全世界の支配者である神の前での自分の身分、つまり、有限な存在で、被造物であること、自分がどれだけ小さくて、どれだけいやしいものであるかということを、はっきりと意識する必要があります。と同時に、神は、神と比較すれば無に等しい存在である私たちを、ご自分の子どもにしてくださったほどに、私たちを愛してくださる父であるということを忘れてはならないのです。

私たちは、畏れながらも大胆に、安心して、天におられる私たちの父である神に近づくことができますように。そして、いつも神との親しい交わりと神の祝福のうちに生きることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたを深く愛する心をお与えください。
すべてにおいてあなたを愛し、
人の思いをはるかに越えたしあわせに
あずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

8月13日 年間第19主日A年 (マタ14,22-33)

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」マタ14,26-27

イエス・キリストは、宇宙万物の創造主である神の御ひとり子であり、御父からすべての権能を授かっておられる方でありますので、イエスの弟子になれば、もはや何の困難にも、何の苦しみにも悩まされることがないと思う人が大勢いるようです。このような期待を持っている人は、洗礼を受けた後に何らかの苦難と出逢えば、失望して、もはやイエスに信頼することができなくても、場合によってイエスから離れても、不思議ではないと思います。

確かにイエスは、私たちを悪から守ることを約束してくださいましたが、キリスト者を特別扱いして、絶対に悪と出逢わせないとか、苦しみを味わわせないとか、私たちのためにあらゆる問題を解決してくださるなどのような約束をしたわけではありません。

イエスの教会の礎になる使命、イエスを代表して地上に残された教会を指導する使命を与えられたペトロは、イエスに従った後にも、死に至るまでいろいろな危険や困難に逢ったり、いろいろな問題に悩まされたり、他に多くの苦しい体験をしたりしました。最初ペトロは自分の力にだけ頼っていましたので、危険や困難や苦しみに負け、そのためにイエスから離れたりしましたが、自分の力ではなくイエスを信頼するようになり、イエスの力に頼るようになると、ペトロは苦しい体験を、イエスから与えられた使命をよりよく果たすために、また、イエスとの絆を深めるために、利用することができるようになりました。そして、イエスを自分の命よりも愛するようになったペトロは、自分の殉教の死を完全な奉献に変えることによって、イエスから与えられた使命を全うするため、イエスと完全に一つとなるために利用することができたのです。

洗礼を受けることによってキリストの弟子、神の子となった私たちは、他の人と同じように、いろいろな困難や苦しみを体験することがありますが、私たちはペトロと同じように、悪から善を引き出す力を与えられていますので、どんな大きな悪に逢っても、この悪に負けることなく、イエスご自身、また、イエスの数え切れないほど多くの弟子と同じように、この悪を善に変えることができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
わたしたちは、
聖霊によってあなたの子どもとしていただきました。
あなたを父と呼ぶわたしたちを、
約束された永遠のいのちに導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月30日 年間第17主日A年 (マタ13,44-52)

「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタ13,46

最高の幸福のためにどうしても必要だと思われるものは、そう思う人にとって最も価値の高い宝物になります。人によって、それは物質的な富や健康であったり、仕事や娯楽であったり、学歴、社会的な地位や権力であったり、また、他人に認められることや多くの友人がいることであったりします。

しかし、人間の最高の幸福のために何よりも必要なのは、神の国、すなわち、神との愛の交わりであるということを、宝と真珠についてのたとえによってイエスが教えています。

たとえに登場する、宝が隠されている畑を見つけた人と商人が、見つけた宝や真珠を手に入れるために、自分の持ち物を売ったように、神の国に入るために、言い換えれば、神との愛の交わりに生きるために、今まで自分の宝と思われたものを手放し、それの束縛から自由になる必要があるのです。

今までの生き方への執着が強ければ強いほど、その生活の中心になっていたもの、頼りにして来た物を手放すのは、難しいことです。それができるために、聖パウロと同じように、キリストの愛の素晴らしさと、「万事が益となるように共に働く」(ロマ8,28)神の力の偉大さを知るようになることによって、今まで自分の宝になっていたものを、現実的に見直す必要があります。要するに、この宝と思い込んでいたものは、今まで非常に役に立っても、思ったほど価値がないこと、思ったほど力がないこと、それなりに良い物であっても、ないよりはあった方がいいようなものであっても、自分の幸福のためにどうしても必要なわけではないこと、場合によって真の幸福を妨げるものであることを、認める必要があるのです。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月23日 年間第16主日A年  (マタ13,24-43)

「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。」マタ13,27-28

私たちは、毎日のように苦しみや悪を体験しています。この世に悪が存在しているがゆえに、神は良い方であると信じることのできない人や、神の存在そのものを否定している人がいるようです。神を信じるためだけではなく、神を愛することができるためにも、悪の由来、また、神と悪の関係を知る必要があると思います。

「毒麦」のたとえを通してイエスが教えてくださるとおり、そもそも創造主である神が、悪を創ってはおられないし、悪の存在を求めてもおられないのです。けれども、麦を育てるために畑を作った人は、毒麦にも生える可能性を与えたように、神は、人間に最高の善を与えるためにこの世界を創造されたことによって、悪が存在することをも可能にされたのです。

神が世界を創造してくださった最終的な目的というのは、人間が愛によって神と結ばれて、神の命にあずかり、永遠に神と愛の交わりの内に生きることです。人間は愛することができるために、神から自由意志を頂きました。しかし、自由意志は人間に愛する可能性を与えるだけではなく、悪を行う可能性をも与えています。残念ながら人間は、「敵」に騙されて、神に背いてから、この世に悪が生まれ、この世に苦しみと死が入り込んだのです。

神が人間から自由意志を奪い取れば、確かに、人間は悪を行うことができなくなりますが、同時に愛することもできなくなるのです。結果的に、最終的な目的に達することができず、永遠に不幸になりますので、自由意志と共に愛する可能性を失うことは、人間にとって最悪であると言えます。

人間が自由意志という賜物の本来の目的に逆らって、悪を行っても、神はこの人を諦めませんし、愛し続けています。神はご自分の愛を示すことによって、この人の心の中でご自分に対する愛を起こそうとし、ご自分との一致へと忍耐強く導いてくだるのです。

恵み豊かな神よ、

あなたを仰ぎ見る民に、
聖霊を惜しみなくお与えください。
信仰、希望、愛に燃えて、
いつもあなたのことばに従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月16日 年間第15主日 A年 (マタ13,1-23)

「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」マタ13,8

イエスのたとえの種を蒔く人は、良い土地だけではなく、実を結ぶ可能性のほとんどないところにも大切な種をまきます。それは、この人が、蒔き方が下手であるためではなく、神の気前の良さ、神の賜物の与え方を示しているからです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ 5,45)とイエスが教えてくださった通りに、神は、善人とか、正しい人、つまり神のたまものを大切にする人だけではなく、あらゆる人に命を与え、例外なしにすべての人を支えて、一人ひとりに必要な能力を与えてくださいます。神がそうなさるのは、すべての人を愛しておられるからです。神は、他の人が、また、本人さえもが知らなくても、一人ひとりの最も優れた能力を知っておられます。ですから、本人を含めて、もう誰も期待していない人からも、豊かな実を結ぶことを求めておられるのです。

すべての人の最も優れた能力というのは、「天の父の子となる」(マタ 5,45)こと、つまりイエス・キリストのような人になるということなのです。私たちがどの程度イエスに似てきたかということは、どれほどの実を結んだかということになります。したがって、自分をイエスと比較することによって、自分が何倍の実を結んでいるかということが分かるわけです。

もし、神が喜ぶように豊かな実を結びたいと望んでも、実際にはまだ実を結んでいない、それとも少ししか結んでいないならば、その原因を探す必要があります。そして、自分の成長を妨げるものをなくすようにするために、自分にできることをしなければならないのです。

神からいただいている、溢れるほど豊かな恵みに、心を込めて協力することによって、私たち一人ひとりが百倍の実を結ぶこと、つまりイエス・キリストのようになることができますように祈りましょう。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、
暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月9日 年間第14主日A年 (マタ11,25-30)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタ11,28-30

日常生活で疲れて、安らぎを捜し求めている人が非常に大勢いるようです。その現状を踏まえて、いろいろな気晴らしやストレス発散の方法を商売にする人が増えています。

疲れている人のうちには、キリスト者になれば、安らぎを得られると考えている人もいるのでしょうか。むしろ、キリスト者になるためには、難しい勉強をしなければならないと思う人や、キリスト者になってからいろいろな義務を果たさなければならないと思う人もいるので、余計に疲れるだけだと心配している人の方が多いのではないかというような気がします。

確かに、キリスト者として生きるのは、気楽なことではありません。なぜなら、キリスト者は、自分の望みや欲望のままに生きるのではなく、イエス・キリストの望みに従って生きようとしているからです。自分の望みをキリストの望みに合わせることは、時に難しく、時に苦しいことです。

イエスは、ただ一時的な気晴らしやストレス発散ではなく、私たちの精神的な疲れやストレス、また、他の苦しみの原因となっている問題を、完全に決定的に解決することのできる方なのです。実は、キリストの望みは、私たちの望みに逆らうのではなく、逆に、私たちの最も深い望みを示すものなので、私たちは、イエスの望みに従って生きることによって、心の最も深い望みを満たすことになるのです。私たちは心の最も深い望みを満たさない限り、本当の安らぎを味わうことはありません。

もし、私たちがイエス・キリストを心から愛するようになるならば、自分の利益になると思うようなもののためではなく、イエスに対する愛のために彼に従い、彼に学ぶことでしょう。そうするならば、その「軛」は本当に負いやすく、その「荷」は本当に軽いということを体験することができます。そして、イエスの約束通りに、私たちの心の飢えと渇きが満たされて、一時的ではなく永遠に続く安らぎを、必ず得られるのです。

聖なる父よ、
あなたは、倒れていた世界を、
キリストの死によって
新しいいのちに立ち直らせてくださいました。
信じる者を罪の束縛から解放し、
終わりのない喜びにあずからせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月2日 年間第13主日A年 (マタ10,37-42)

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタ10,37–42

イエス・キリストはすべての人の救いのために、すなわち、すべての人々が父である神の愛の招きに応じて、神の愛を受け、神に自分の愛をささげることによって、神と結ばれ、永遠に神との愛の交わりに生き、神の至福にあずかるために十字架を担って、十字架上でご自分の命をささげてくださいました。このような死を含めてイエス・キリストの人生全体を見ると、愛するとは、自分の命を含めて自分のすべてを、他の人の真の善と真の幸福のためにささげることであるということが分かると思います。

自分の十字架を担ってイエスに従うとは、イエスと同じように、どんな状況においても愛に生きること、つまり、順境においてだけではなく、逆境においても、愛に喜びが伴うときだけではなく、愛に悲しみや苦しみが伴うときにも愛に忠実に生き、自分の身内や自分のことを愛して、自分のために善を行う人のためにだけではなく、他人や自分を憎んで、悪を行う人のためにも、できる限りの善を行い続けることなのです。キリストの弟子は、このように生きるときだけ、愛において成長し、完成されて、イエスご自身と同じような人間となり、イエスの弟子としての目的に辿り着くことができる、つまり、父である神と一つになることができるという意味で、「イエスにふさわしい」人なのです。

このような生き方は非現実的なものや、非常識的なものに見えても、宇宙万物の創造主の御ひとり子として人間のことを誰よりもよく知っておられると同時に、人間を誰よりも強く愛しておられるイエス・キリストが、それを私たちに求めておられるならば、人間にとって可能な生き方であるだけではなく、最高の生き方でもあるという確信を持つことができるのです。

ますます多くの人々が、イエスを信頼して、イエスの呼びかけに応え、イエスのように生きることによって父である神の愛の招きを受け、神ご自身と神の招きを受けた他の多くの人々とともに、この世においても、死を超えても、完全な愛の交わりのうちに永遠に生きることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたはわたしたちを選び、
光の子としてくださいました。
わたしたちが罪のやみに迷うことなく、
いつも真理の光のうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

6月25日 年間第12主日A年 (マタ10,26-33)

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」マタ10,28

人はいろいろなものを恐れるために、不自由になったり、場合によってやりたいことや、やらなければならないと思うことが、全くできなくなったりします。そのために、何も恐れないようになりたいと思う人が沢山いるようです。けれども、恐れは人間の自己防衛本能の大事な一部ですので、危険なものに対して恐れを感じなければ、人間は生きることができないのです。

本当に問題なのは、私たちが恐れること自体というよりも、何が危険であるか、何が危険ではないか、つまり何が恐れられるべきか、何が恐れられるべきではないかということを、知らないことなのです。そのような無知のために、例えば、麻薬を恐れなくても、医者を恐れている人がいます。また、隣人を助けることを恐れても、他の人を騙したり、悪用したりすることを恐れていません。

イエス・キリストは、私たちに恐れるべきものと、恐れる必要のないものを示しています。けれども、それだけではありません。人間が恐れの奴隷にならないように、恐れによって麻痺状態に落とされないように、逆に恐れを乗り越えて、正しいことを実行するために必要な力をも与えています。

私たちはイエスと同じように、父である神の愛を体験して、この愛を最も大切な宝にし、自分の選択の基準にするならば、あらゆる怖れから解放されて、すべての人の善と幸福を求めておられる神が示してくださる道を、歩むことができるのです。

聖なる父よ、
あなたをいつも敬い、愛する心をお与えください。
あなたを愛して生きる者は見捨てられることがないからです。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。