年間第21主日C年 (ルカ13,22-30)

「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」ルカ13,23

父である神は、ご自分が創造されたすべての人々の救いを求めておられます。救いとは、三位一体の神の愛の交わりにあずかることですので、救われるためには、神の愛と共に神ご自身を受け入れることと同時に、自分の愛と共に自分自身を神にささげること以外には方法がないのです。それは非常に難しいこと、もしかして全く不可能であると思われるかもしれませんが、人間の力だけでは無理なことであっても、神の働きによって可能なものになっているのです。

人間が救われるために、神はまず、人間に自由意志と共に、愛する能力を与えてくださいました。それから、人間のために命に満ちた素晴らしい生活の場を造って、人間に対する愛を表し、人間をご自分との愛の交わりへと招いてくださったのです。人間はこの招きを拒否して、神が示してくださった道とは別の道を歩むことによって幸福を得ようとするようになっても、神は人間に対するご自分の愛とこの愛に基づく望みを諦めずに、人間の救いのために働き続けられたのです。

神の愛の最も完全な表現と最も力強い招きとは、イエス・キリストの生涯、特にイエスの受難と十字架上の死、また復活ですが、神は今日に至るまで無限の方法を以て、一人ひとりにご自分の愛を表し、愛の交わりへと招いておられるのです。人間は知的に神を知らずに、それを意識しなくても、真の愛に生きることによって、実際に神の招きに応えているし、永遠の救いに向かって歩んでいるのです。

殆どの人々が、自分と自分が属しているグループのことだけを考え、自分の楽しみ、自分の快楽や満足のみを求めている現代、つまり利己心が一番高く評価されている現代に生きる私たちにとって、愛に生きることは非常に難しいのです。なぜなら、愛に生きること、つまり自分のためではなく、他人のために生きることは、自分の楽しみ、自分の快楽や満足、一言で言えば自分の幸福を犠牲にすることであって、現代人の価値観では、一番愚かな生き方として考えられているからです。

愛に生きるために、傷つけられているがゆえに自己防衛的になっている自分の本性だけではなく、現代の価値観や一番強い流行に逆らう必要があっても、ますます多くの人々が、ご自分の復活によってイエス・キリストが表してくださった愛の力を信じて、神の望みと同時に、自分自身の心の最も深い望みに沿って愛に生き、神の招きに応えることができますように祈りましょう。

永遠の父よ、
約束された聖霊を待ち望むわたしたちの祈りを
聞き入れてください。
移り変わる世界の中にあって、
わたしたちが心を一つにして愛のおきてを守り、
いつもまことの喜びに生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第20主日C年 (ルカ12,49-53)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」ルカ12,49

イエス・キリストが地上に投ずる火とは、愛の火なのです。イエスは、自分自身が、父である神とすべての人々に対する愛の火で燃えたように、一人ひとりの人にも燃えるようになることを求めておられるのです。この望みを実現し、すべての人々の心の中で愛の火を起こすために、ご自分の言葉と行いによって神ご自身の愛を現してくださったのです。十字架上の死は、神の愛の一番完全な表現となりましたが、イエスは、大きな知恵を以って神の愛を宣言したり、大きな力を以って人々を助けたりしたときに、多くの人がイエスに従っていましたが、イエスが逮捕されたときには、一番親しい弟子たちですら自分たちの命を守るためにイエスから離れました。そして、イエスに従って来た群衆自身が、イエスの死刑を求めるようになったのです。

弟子たちがイエスから離れ、群衆がイエスに対して敵意を持つようになったのは、自分たちの利益を求めただけで、彼らの心の中では愛が燃えていなかったからでしょう。おそらく、イエスにとっては肉体的な苦しみよりも、ご自分を通して神の愛を体験した人々のこのような心の状態の方が、大きな苦しみをもたらしたのではないかと思います。

幸いに、弟子たちの裏切りも、群衆の敵意も、権力者の不正や苦しい受難と十字架上の死も、イエスの愛を滅ぼすことができませんでした。イエスは最後まで、父である神と例外なくすべての人々を愛し抜かれたからこそ、救いのわざを成し遂げてくださったのです。

この救いのわざの一番大きな実りとは、聖霊、つまり神ご自身の人格的な愛の派遣でした。使徒たちは、五旬祭の日に聖霊を受けてから、イエスの望み通りに、愛の火で燃えるようになって、命をかけてキリストを証しすることによって、全世界に愛の火を投ずるようになったのです。

現在の人も心を開けば、イエス・キリストが遣わしてくださった聖霊を受けることによって、愛の火で燃えるようになれます。確かに、この愛の火は、人の心を温め、人生を照らすから、大きな喜びと平和をもたらしますが、同時に、この人の心の中にある罪や悪い癖、不健全な執着などが愛の火で燃え尽くされますし、場合によって、この愛に忠実に生きるために他の苦しみをも受ける必要があるかもしれません。ですから、愛の火を受け入れるために、愛を求めることだけではなく、イエスに対する信頼が必要です。要するに、私たちは、愛の火に燃えつくされるのではなく、清められるという確信、また、結果的にキリストの姿に造り替えられ、完成させられるという確信も必要なのです。

いつくしみ深い父よ、
あなたを深く愛する心をお与えください。
すべてにおいてあなたを愛し、
人の思いをはるかに越えたしあわせに
あずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第19主日C年 (ルカ12,32-48) 

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカ12,34

自分の富とは何か、つまり自分が何を一番大切にしているかと問われたら、いろいろな答え、もしかして、尋ねる人によって、また、場所や状況によって異なる答えを出すことでしょう。けれども、自分にとって本当に何が大事であるかということを知るためには、頭で考えるよりも、自分が実際に何のために、また、誰のために一番長い時間とか、一番大きなエネルギーとか、一番沢山のお金などをかけているかということを、見る必要があると思います。

昔の人や現代の多くの人にとって最も大切なのは、実はイエス・キリストとの関係なのです。けれども、誰かがイエスとの関係を一番大切にするからと言って、他の人との関係を軽んじるということではありません。イエス・キリストとの真の愛の交わりの内に生きている人は、イエス・キリストご自身と同じように、自分に対しても他の人に対しても、また、仕事や他のものに対しても、正しい態度をとることができます。言い換えれば、イエスとの関係が自分の最も大切な富になれば、他のあらゆる関係が癒されて、自然に正しくなるのです。

おそらく、自分の生き方を正直に見つめれば、大部分のキリスト者が自分たちにとって、イエス・キリストよりも大切なものがまだまだ沢山あるということに気が付くことでしょう。それを見ると、もしかしてキリスト者とは、イエス・キリストを誰よりも強く愛し、イエスとの関係を自分の命を含めて何よりも大切にしている人ではなく、むしろイエス・キリストを誰よりも強く愛したい、イエスとの関係を何よりも大切にしたいと求めている人なのではないかと思わせられるのです。

その望み自体は、大きな恵みです。もし、私たちがこの望みに従って生きるならば、つまり、聖書の読書を初めとして、与えられた機会を用いてイエスをもっと深く知るように努めることによって、また、イエスに対する愛がまだ小さくてもそれにできるだけ忠実に生き、それを実践することによって、それから、個人的な祈り、キリスト教の共同体の生活に肯定的に参加し、他のキリスト者と交わり、共に祈ることによってイエスとの交わりを深めようとするならば、イエス・キリストご自身が、私たちとの関係を完成してくださるに違いないと、私たち日リスト者は信じています。

さて、私たちはイエス・キリストとの交わりの完成を目指して、イエスから与えられた使命を果たし、イエスに最後まで従うことができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
わたしたちは、
聖霊によってあなたの子どもとしていただきました。
あなたを父と呼ぶわたしたちを、
約束された永遠のいのちに導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第18主日C年 (ルカ12,13-21)

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」ルカ12,20-21

昔も今も、非常に多くの人々が財産に希望を置きます。つまり、大きな財産を持っていれば、安心して、楽しく、快適に生きることができる、一言で言えば、幸せに生きることができると思っているということなのです。財産の所有が幸せになる絶対的な条件であると信じている人にとっては、財産を手に入れることが何よりも大事なことになりがちです。ですから、この人々は、財産を手に入れるために、家族や健康を初め、人生において大切である多くのものを犠牲にして、一生懸命に働くこともあれば、国が作成した法律だけではなく、神が与えてくださった掟をも破ったり、いろいろな人と競争したり争ったりして、知らない人だけではなく、友達も身内の人も騙したり、裏切ったりすることもあるのです。

それ程までに一生懸命努力すれば、求めた財産を手に入れることがありますが、この財産にかけた希望がかなえられるのでしょうか。

まず、人間は、愛に生きるために創造された存在ですので、全世界を手に入れても、心が愛に満たされていないならば、この人は決して幸せになれないのです。ですから、財産には、初めから人を幸せにする力がないのです。そして、もし、財産を得るために、人が以上のような犠牲を払ったり、人と神との正しい関係を失ったり、法律を破ったりするならば、幸福というよりも、大きな不幸を招くのです。

それから、死の問題もあります。人間は、いくら大きな財産を集めることができたとしても、必ず死にます。死ぬときには、頼みにしていた財産が奪われますので、この人の一生の努力は無駄になるわけです。

財産は、幸せになるための絶対的な条件ではありませんし、幸せを与えることができないだけではなく、幸せになることを妨げることもありますので、それを集めることを人生の目的にすることは、愚かなものです。

けれども、財産そのものは悪でもないし、幸せになるために役に立つ可能性もあります。その可能性を実現するために、大切なことを犠牲にすることなく、不正な方法によって財産を手に入れる誘惑を拒否しながら、正当な方法によって手に入れた財産を正しく用いること、つまり、自分の欲望を満たすためではなく、他の人を助けるため、神と人々との絆を深めるために財産を用いる必要があるのです。なぜなら、愛の絆だけが死を超えて永遠に続くものであり、幸福になる絶対的な条件であるからです。

すべてを治められる神よ、
あなたに祈り求める民を顧み、
尽きることのないいつくしみを注いでください。
あなたの似姿に造られた人々が救いの恵みを受け、
新しいいのちのうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第17主日C年 (ルカ11,1-13)

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ11,1

宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛しておられる父でもあるのです。この愛のゆえに、神は私たちに必要な恵み必要な善を、常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。

残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、また、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないばかりか、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的には自分に害を与えるものさえをも手に入れるように、一生懸命努めています。

幸いにも、やがて自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めておらず、つまり、間違った動機に基づいて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠もない期待、場合によって、非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。

そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようにもなるのです。

このような祈りと生き方によって、人間は最高の賜物、すなわち、すべての良いものの与え主である神ご自身を、受け入れるために必要な心の準備ができるのです。

神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第16主日C年 ルカ10,38-42

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10,41-42

「仕えられるためではなく仕えるために」(マタ20,28)来られた主イエス・キリストは、多くの人々に奉仕して、いろいろな病気を患っていた人を癒したり、空腹の人々に食べ物を与えたり、悪の支配下にいた人をその束縛から解放したり、悲しんでいた人を慰めたり、恐れに満ちた人を励ましたりしました。ですから、マルタのように、完全な人間であるイエスの模範に倣って、全力を尽くして人に仕えることは、素晴らしくて、非常に良いものであるわけです。

けれども、その際に意識しなければならないことがあります。それは何かというと、人間の肉体的や精神的な必要性を完全に満たすことができたとしても、それだけは十分ではないということです。なぜなら、人間は、神の命にあずかって、神との愛の交わりに生きるために創造された存在ですので、この目的を達成しないかぎり、聖アウグスチヌスが言ったように、「決して憩うことがない」から、すなわち、完全に満たされることはなく、飢え渇きつづけるからなのです。

誰よりも、このことをよく知っておられるイエス・キリストは、ご自分の奉仕によって、人の肉体的な必要性と精神的な必要性を満たそうとしただけではなく、何よりも、それによって神の愛を示して、この人の心を神に向けさせようとされたのです。

「マリアは良い方を選んだ」とは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」ことによって、自分の奉仕や他のものだけではなく、マリアは自分自身をイエスにささげて、イエスと交わり、そして、イエスを通して、神ご自身と交わっていて、イエスが一番与えたかった賜物、と同時に人間が一番必要としている恵みを、受けていたということなのです。

さて、私たちは、マリアのように、イエスとの静かな時を過ごすことによって、神の愛と神の命を受け入れて、マルタのように全力を尽くして人に仕え、この人たちに神の愛を示し、彼らの心を神に向けさせることによって、最高の愛を実践することができますように祈りましょう。

恵み豊かな神よ、
あなたを仰ぎ見る民に、
聖霊を惜しみなくお与えください。
信仰、希望、愛に燃えて、
いつもあなたのことばに従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第15主日C年 (ルカ10,25-37)

「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」ルカ10,36-37

イエスを試そうとした律法学者は、永遠の命への道をよく知っていました。要するに、永遠の命を受けるために、神と人間を愛すること以外に何もないということを、よく知っていたということです。と同時に、自分がこの道を歩んでいないこと、特に隣人を愛していないということも知っていたので、自分を正当化するために、隣人とは誰であるかを知らないと言ったのです。恐らく、この律法学者と同じように、また、イエスが語ったたとえの祭司とレビ人のように、正しいことを知っていても、それを行わない人が大勢いるのではないかと思います。また、彼らと同じように、この状態の本当の理由を探って、見出した問題を解決する代わりに、いろいろな言い訳をする人々も少なくないでしょう。

恐らく、律法学者は、聖書を研究したり、それを教えたりしたので、神殿で仕えた祭司とレビ人のように、神を愛していると考えていたのでしょうが、彼らが隣人を愛していなかったことは、神をも愛していなかったという事実を表していたのです。なぜなら、聖ヨハネが教えているように(1ヨハ4,20)、神を愛している人は、隣人をも愛しているからなのです。実は、神と隣人の愛の掟は、別の掟ではなく、一つの愛の掟の裏表であると言えると思います。神を真に愛している人は、隣人をも愛しているだけではなく、隣人を真に愛している人は、それを意識しなくても、実際に神をも愛しています。誰かが、隣人に対する自分の愛を深めたいと思うならば、神への愛を深めるように努める必要があります。同じように、神への愛を深めるために隣人への愛を深める必要があります。

私たちは、相手の真の素晴らしさ、真の価値を知れば知るほど、ますます深く愛するようになりますので、神の本質と同時に、人間の本質の完全な現れであるイエス・キリストをより深く知ることによって、私たちのキリストに対する愛だけではなく、父である神に対する私たちの愛、また、隣人に対する私たちの愛が深まります。ですから、ますます大きな愛に満たされて生きるために、イエス・キリストをもっと知るように努める必要があるわけです。

けれども、愛は、何よりも、実践されることによって発展しますので、私たちの現在の愛がいくら小さいものであっても、良いサマリア人のように全力を尽くしてこの愛に生き、それを実践しなければならないのです。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第13主日C年 (ルカ9,51-62)

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ルカ9,51

人類の歴史を見ると、殆どの権力者は、手に入れた権力を弱い人や完全に無力な人々の利益のために用いるのではなく、自分自身や自分の仲間の利益のために用いているということが分かります。また、何らかの悪事を行ったためではなく、権力者に逆らったために罰せられることも、珍しくないでしょう。

以上の経験に基づいて、多くの人は、最高の支配者、最高の権力者である神が、この地上の多くの支配者や権力者と同じように振る舞っておられると、思い込んでいるようです。イエスを歓迎しなかったサマリア人を滅ぼし、復讐しようとしていたイエスの弟子たちも、きっと、このように考えていたと思います。

天から来られた方として、神のことを完全に知っておられたイエスは、多くの人々が想像している神とまったく異なる神を、ご自分の言葉と行いによって現してくださいました。弟子たちに、復讐を禁じることによってイエスが教えてくださったのは、神がご自分に逆らう人々に対して、絶対に罰を与えないし、復讐もしないということなのです。そして、「エルサレムに向かう決意を固められた」ことによって、イエスは神についてさらに素晴らしいことを現してくださいます。

イエス・キリストが、ご自分に対して敵意を持って、ご自分を殺そうとしていた権力者が大勢いるエルサレムに敢えて行かれたのは、この人たちを滅ぼすためではなく、この人たちにも神の愛を現し、回心へと呼びかけ、神との愛の交わりに招くためなのです。確かにイエスは、権力者たちがご自分の証しを受け入れないこと、ご自分の呼びかけと招きに応える代わりに、ご自分を殺してしまうことを知っておられました。それにもかかわらず、エルサレムに行くことにされたのは、苦しみを避けたい、また、ご自分の命を守りたいというような望みよりも、彼らにも神の愛を現したい、彼らを神のもとに導きたいという望みの方が強かったからです。その意味で、エルサレムに行くことは、ご自分に対して敵意を持っていた人に対する真の愛の表現であったとともに、すべての人々に対する神の愛を現す行動でもあったのです。

神の意志に逆らって罪を犯した人間や、大きな悪事を働いて、他の人と神ご自身を傷付けた人さえも愛し続けて、この人の救いを求め、いつも和解と愛の交わりへと招いておられる神に信頼して、神の招きに応える人がますます増え、神の国が発展していきますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたはわたしたちを選び、光の子としてくださいました。
わたしたちが罪のやみに迷うことなく、
いつも真理の光のうちに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第8主日C年 (ルカ6,39-45)

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカ6,45

誰しも、ゆるしの秘跡を受ける際に、または、他の機会に、自分の生き方を正す決心、つまり、悪い行いを止めて、良いことをする決心をしたことがあるのではないかと思います。そうだったならば、この決心を実現して、自分の生き方を本当に正すことができたでしょうか。おそらく、しばらくの間は、前よりも正しく生きることができたとしても、結果的に前の生き方、前の過ちや罪や怠りに、戻ってしまったのではないでしょうか。

イエス・キリストが教えてくださる通りに、本当の問題、つまり正しくない生き方の真の原因は、人間の心の中にあるのです。それは多くの場合、私たちが意識していない欲望、他の人や自分自身や神に対する非現実的な期待、また、根拠のない期待、間違った価値観やいろいろな執着、過去に負わされた心の傷などです。私たちが、自分の生き方を正すように強く決心して、全力を尽くしてこの決心を実行しようとしても、心の中にある原因自体が残っている限り、私たちの努力は空しくて、残念ながら失敗することに決まっているのです。

自分の生き方を正すために、罪やいろいろな過ちを犯さないように注意すること、努力することが大事ですが、同時に自分の心を知るように努力することも不可欠なのです。そのために、過ちであったとか、罪であったと思う行動を通して、自分が何を得ようとしていたのか、この行動の動機や原動力は何であったか、自分が何の感情に動かされたか、この感情は、何の期待や欲望を現しているかというような質問に対する答えを、自分の中で探究する必要があります。このようにして、自分の罪や過ちの原因を見つけたら、ただちにそれを意識的に手放すように努力する必要があるのです。

また、自分の「心の倉」から悪いものを捨てるだけではなく、「心の倉」に良いものを入れる必要もあります。最終的に正しい生き方とは、自分の努力の結果というよりも、神の働きの結果ですので、祈りをすることや神の言葉に耳を傾けること、また、自分にできることは何でも積極的にすることによって、何よりも神の働きに心を開くようにする必要があるのです。

万物を治められる神よ、
世界の歩みを力強く導いてください。
現代に生きる教会が人々に仕え、
平和のために尽くすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第6主日C年 (ルカ6,17.20-26)

「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」1コリ15,19

キリスト者であるならば、私たちの創造主であり父である神が、真の幸福、しかも永遠に続く幸福の唯一の源であるということと、神はこの幸福をすべての人に、恵みとして与えてくださるということを知っているはずです。また、幸せに生きるために何よりも必要なのは、神の子であるイエスを通して神をますます深く知ることによって、ますます強く神に信頼し、心を開いてこの恵みを受けることであるという事実を信じるはずです。けれども、本当に信じるとは、何らかの事実を認めることだけではなく、それに従って生きることでもあるのです。そのためには、自分が本当に信じているかどうかということを知るべく、自分の生き方を見つめる必要があるのです。

何を得るために、あなたは一番一生懸命に努力し、一番沢山の時間をかけていますか。それは、キリストにもっと忠実に生きること、神をもっと知ること、神にもっと近づくことでしょうか。それともそれは、キリストを知らない人たちが幸せに生きるために、どうしても必要だと思っているようなことなのでしょうか。

もし、私たちがイエスを信じても、イエスの教えと異なる教えに従っているならば、また、永遠の命を信じても、自分の人生は死ぬときに終ってしまうかのように、この世のものだけを求めているならば、私たちこそ不幸であり、誰よりも惨めなのです。けれども、頂いた信仰の恵みに忠実に生き、誰よりもイエスに信頼し、イエスの導きに従って生きるならば、私たちこそ幸いであり、完全な幸福に向かって歩んでいるとの確信を持つことができるのです。

ですから、私たちは貧しさの中にも豊かさの中にも、喜びの時も苦しみの時も、神に信頼し、幸福の唯一の源である神の祝福の内に生きることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。