四旬節第4主日B年 (ヨハ3,14-21)

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」ヨハ3,19

もし、あなたが心から求めているものを見つけた時に、余計な荷物を手にしていたならば、どうしますか。恐らく、殆どの人は、自分の手を自由にするためにこの重荷を下して、空いた手で見つけたものを手に入れると答えるのではないでしょうか。これは、常識だと思いますが、実際に私たちはそのような常識に従わないことが少なくないようです。

私たちが持っているものに執着し、また、物質的な物だけではなく、物事に対する自分の理解や自分の生き方に慣れすぎると、それ無しに生きることはあり得ない、少なくとも、それなしに生きることは難しいという確信を持つようになり、それを失うのを恐れるようになります。そのために、このような執着や慣れが、常識に従うことができない一つの理由になるのです。

けれども、そのような恐れの支配下に生き、つまり、それに左右されて生きる人間は、実際に自分自身の成長を妨げているのです。なぜなら、成長するということは変更すること、つまり慣れてきたものを手放して、新しいものを受け入れること、慣れてきた所から離れて、新しい所に移動することだからです。

強い光が暗くなっていた所を照らすことによって、暗闇が消えて、そこが極端に変わるように、イエス・キリストが私たちの成長を妨げるものから解放し、生き方を変えるために、それを最高のものにするために、光としてこの世に来られたのです。

しかし、光が来たら、暗闇には選択がなくて黙って消えますが、人間がイエスの働きによって変えられるためには、イエスの働きを承諾して、この働きを受け入れる必要があるのです。実は、洗礼を受けるとは、このような承諾をすることでもあるのです。けれども、古い生き方に執着しすぎて、それを失う覚悟を持っていないならば、この承諾は人生に何の影響をも及ぼさない、口先だけのものであると言えるのではないかと思います。

聖なる父よ、
あなたは御子の苦しみと死によって、
ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。
キリストを信じる人々が、
信仰と愛に満たされ、
主の過越を迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。