7月28日-8月3日(31週)

28日(日)年間第17主日

29日(月)聖マルタ(記)

30日(火)年間第17火曜日

  (聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士)

31日(水)聖イグナチオ(ロヨラ)司祭 (記)

1日(木)聖アルフォンソ(リゴリ)司教教会博士(記)

2日(金)年間第17金曜日

 (聖エウセビオ -ベルチェリ- 司教)、
 (聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭)

3日(土)年間第17土曜日

 (聖母の土曜日)

年間第17主日C年 (ルカ11,1-13)

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ11,1

宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛しておられる父でもあるのです。この愛のゆえに、神は私たちに必要な恵み必要な善を、常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。

残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、また、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないばかりか、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的には自分に害を与えるものさえをも手に入れるように、一生懸命努めています。

幸いにも、やがて自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めておらず、つまり、間違った動機に基づいて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠もない期待、場合によって、非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。

そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようにもなるのです。

このような祈りと生き方によって、人間は最高の賜物、すなわち、すべての良いものの与え主である神ご自身を、受け入れるために必要な心の準備ができるのです。

神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

7月21日-7月27日(30週)

21日(日)年間第16主日

22日(月)聖マリア - マグダラ(祝)

23日(火)年間第16火曜日

  (聖ビルジッタ修道女)

24日(水)年間第16水曜日

  (聖シャーベル・マクルーフ司祭 )

25日(木)聖ヤコブ使徒(祝)

26日(金)聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ(記)

27日(土)年間第16土曜日

  (聖母の土曜日)

年間第16主日C年 ルカ10,38-42

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10,41-42

「仕えられるためではなく仕えるために」(マタ20,28)来られた主イエス・キリストは、多くの人々に奉仕して、いろいろな病気を患っていた人を癒したり、空腹の人々に食べ物を与えたり、悪の支配下にいた人をその束縛から解放したり、悲しんでいた人を慰めたり、恐れに満ちた人を励ましたりしました。ですから、マルタのように、完全な人間であるイエスの模範に倣って、全力を尽くして人に仕えることは、素晴らしくて、非常に良いものであるわけです。

けれども、その際に意識しなければならないことがあります。それは何かというと、人間の肉体的や精神的な必要性を完全に満たすことができたとしても、それだけは十分ではないということです。なぜなら、人間は、神の命にあずかって、神との愛の交わりに生きるために創造された存在ですので、この目的を達成しないかぎり、聖アウグスチヌスが言ったように、「決して憩うことがない」から、すなわち、完全に満たされることはなく、飢え渇きつづけるからなのです。

誰よりも、このことをよく知っておられるイエス・キリストは、ご自分の奉仕によって、人の肉体的な必要性と精神的な必要性を満たそうとしただけではなく、何よりも、それによって神の愛を示して、この人の心を神に向けさせようとされたのです。

「マリアは良い方を選んだ」とは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」ことによって、自分の奉仕や他のものだけではなく、マリアは自分自身をイエスにささげて、イエスと交わり、そして、イエスを通して、神ご自身と交わっていて、イエスが一番与えたかった賜物、と同時に人間が一番必要としている恵みを、受けていたということなのです。

さて、私たちは、マリアのように、イエスとの静かな時を過ごすことによって、神の愛と神の命を受け入れて、マルタのように全力を尽くして人に仕え、この人たちに神の愛を示し、彼らの心を神に向けさせることによって、最高の愛を実践することができますように祈りましょう。

恵み豊かな神よ、
あなたを仰ぎ見る民に、
聖霊を惜しみなくお与えください。
信仰、希望、愛に燃えて、
いつもあなたのことばに従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第15主日C年 (ルカ10,25-37)

「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」ルカ10,36-37

イエスを試そうとした律法学者は、永遠の命への道をよく知っていました。要するに、永遠の命を受けるために、神と人間を愛すること以外に何もないということを、よく知っていたということです。と同時に、自分がこの道を歩んでいないこと、特に隣人を愛していないということも知っていたので、自分を正当化するために、隣人とは誰であるかを知らないと言ったのです。恐らく、この律法学者と同じように、また、イエスが語ったたとえの祭司とレビ人のように、正しいことを知っていても、それを行わない人が大勢いるのではないかと思います。また、彼らと同じように、この状態の本当の理由を探って、見出した問題を解決する代わりに、いろいろな言い訳をする人々も少なくないでしょう。

恐らく、律法学者は、聖書を研究したり、それを教えたりしたので、神殿で仕えた祭司とレビ人のように、神を愛していると考えていたのでしょうが、彼らが隣人を愛していなかったことは、神をも愛していなかったという事実を表していたのです。なぜなら、聖ヨハネが教えているように(1ヨハ4,20)、神を愛している人は、隣人をも愛しているからなのです。実は、神と隣人の愛の掟は、別の掟ではなく、一つの愛の掟の裏表であると言えると思います。神を真に愛している人は、隣人をも愛しているだけではなく、隣人を真に愛している人は、それを意識しなくても、実際に神をも愛しています。誰かが、隣人に対する自分の愛を深めたいと思うならば、神への愛を深めるように努める必要があります。同じように、神への愛を深めるために隣人への愛を深める必要があります。

私たちは、相手の真の素晴らしさ、真の価値を知れば知るほど、ますます深く愛するようになりますので、神の本質と同時に、人間の本質の完全な現れであるイエス・キリストをより深く知ることによって、私たちのキリストに対する愛だけではなく、父である神に対する私たちの愛、また、隣人に対する私たちの愛が深まります。ですから、ますます大きな愛に満たされて生きるために、イエス・キリストをもっと知るように努める必要があるわけです。

けれども、愛は、何よりも、実践されることによって発展しますので、私たちの現在の愛がいくら小さいものであっても、良いサマリア人のように全力を尽くしてこの愛に生き、それを実践しなければならないのです。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。