主の昇天 C年 (ルカ24,46-53)

「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」ルカ24,46-47

使徒たちと他の弟子たちは、イエスを愛していたし、イエスに大きな希望をかけていたので、イエスが亡くなった時に、イエスを失ってしまい、二度と会うことがないと思って、絶望に陥るほど、悲しくなったのです。

幸いなことに彼らの絶望的な状態は、長く続きませんでした。三日後にイエスが復活されましたので、彼らの悲しみは、大きな喜びに変わったのです。また、彼らはこの体験によって、非常に大事なことを実感しました。すなわち、死さえも、彼らをイエスの愛から引き離すことができないことと、イエスが与えてくださった約束は、実現することの不可能なように見えても、イエスには、この約束を実現する力があるということでした。

イエスの昇天も、弟子たちにとって悲しいことでしたが、イエスの復活の体験によって、今の別れはこの前のイエスの死による別離とは、まったく異なるものでした。今、弟子たちは、イエスの言葉を信じて、イエスが与えてくださった約束は必ず実現されるという確信を持っていました。そのために、昇天による別離は悲しみをもたらしても、絶望にはなっていませんでした。逆に、彼らの心は、大きな希望と平和で満たされていたのです。

イエスが弟子たちに約束してくださったのは、 父である神の家で、彼らのために場所を用意すること、彼らを迎えに来ることと、いつまでも共にいること(ヨハ 14,2)、それから、聖霊、つまりご自分の霊を弟子たちに送ってくださる(ヨハ14,26)ということでした。

イエスが約束通りに送ってくださった聖霊を受けた弟子たちは、イエスの姿が見えなくても、イエスとの愛の交わり、しかも前よりも深い交わりの内に生きることができるようになりました。また、イエスの声が聞こえなくても、イエスの導きに従って生きるように、しかも、前よりも忠実に従って生きるようになったのです。

イエスの霊のおかげで、弟子たちは、イエスから与えられた使命を果たしながら、イエスとの関係を深めることができました。これによって使徒たちは、イエスとの決定的な再会のために、そして、イエスとの完全な一致と同時に、父である神との完全な一致であるイエスとの関係の完成のために、準備をすることができたわけです。

全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、
苦しみと死を通して栄光に高め、
新しい天と地を開いてくださいました。
主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。
キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
ともに永遠のいのちに入らせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

 

復活節第6主日C年 (ヨハ14,23-29)

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハ14,27

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」というイエスの言葉は、ミサが行われる度に唱えられるほど重要なものです。この言葉を語られた後にイエスは、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14,27)という言葉を付け加えて、自分が与える平和と一般的に考えられている平和とは、違うものであると強調されたのです。

ある国語事典によれば、平和とは、「心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活ができる状態」です。考えてみれば、そのような平和を実現するためには、悪い行い、他人を悲しませ、傷付けるような行いを避けるだけで十分です。それは簡単に見えるかもしれませんが、人類はそのような平和さえもなかなか実現できないのです。歴史を見れば誰でも分かることですが、自分の幸福だけを求めている人は、自分が弱い時、相手と争うことが自分の損失になるだろうと思う時、悪いことをするのは諦めて、以上の意味での平和を保つように努力しますが、相手より強くなって、相手を攻めることが自分の利益になると思う時には、平和をいとも簡単に破ります。

イエスが与えてくださる平和とは、シャローム、すなわち人間の完全な幸福の状態です。この平和を実現するためにイエスは、私たちを利己心から解放し、神と他の人々との正しい関係に導いてくださいます。正しい関係というのは、相手に悪いことをしないだけではなく、相手を尊敬すること、相手の善を求めて、そのために積極的に力を尽くすこと、すなわち相手を愛することなのです。

人々は神と他の人々との愛によって結ばれる時だけ、すべての人々が心の中で求めている平和、しかも永遠に続く平和が実現されるのです。この恵みを常に願い求めましょう。

全能の、神である父よ、
復活された主イエスの記念を真心こめて祝います。
この喜びを、
わたしたちが日々の生活の中に保つことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

5月19日-5月25日(21週)

19日(日)復活節第5主日

20日(月)復活節第5月曜日

  (聖ベルナルディノ -シエナ- 司祭)

21日(火)復活節第5火曜日

  (聖クリストバル・マガヤネス司祭と同志殉教者)

22日(水)復活節第5水曜日

  (聖リタ -カシャ- 修道女 )

23日(木)復活節第5木曜日

24日(金)復活節第5金曜日

25日(土)復活節第5土曜日

復活節第5主日C年 (ヨハ13,31-33a.34-35)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハ13,34

殆どの人は、自分の人生において何か足りないとか、自分の心が何かに飢え渇いていると感じても、それが具体的にどんなものであるのかが分からないようです。そのために、いろいろな物を追求しますが、どんなものを手に入れても、なかなか満足しないのです。人間は愛によって神と結ばれて、いつまでも神の命と至福にあずかるために創造されましたので、愛に生きていない限り、決して満たされることもなく、心が飢え渇き続けるのです。

けれども、自分の心が満たされるために愛が必要であると分かっても、愛とは何であるかが分からない人が殆どです。例外もあるでしょうが、私たちが子どもの時から体験している「愛」というのは、私たちを愛してほしいと思う人の期待に、応える代わりにもらう報いのようなものです。私たちが言われたことに聞き従ったり、良く勉強したり、スポーツが上手くできたり、親切であったり、お金や他のものを貸したりするとき、それで喜んだ人にほめられたり大事にされたりする時に、愛されているように感じるのではないでしょうか。そのような「愛」を体験して来た人は、自分を喜ばせる人に対して好意を持ったり、この人に優しくしたりする時、この人を愛していると思うのでしょうが、それは悪いことではなくても、私たちが心の奥底で求めている愛ではないのです。

本当の愛を知りたいならば、この愛に生きたイエス・キリストを見つめる必要があります。イエスが示した通りに、真の愛とは、無償で、無条件に相手のために真の善を行うことです。本当に愛する人は、それが自分の喜びになっている時だけではなく、苦しみになっている時でさえも善を行い続けるし、相手を高めるために自分の時間や力だけではなく、必要に応じて自分の命までささげます。確かに、自分がこのように愛されたら素晴らしいことです。けれども不思議なことに、人間の心が満たされるのは、人間がこのように愛されている時ではなく、誰かをこのように愛している時だけなのです。なぜなら、このように愛することによってだけ、私たちは私たちの人生の目的である神と一体になるからです。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第4主日Ⅽ年     (ヨハ10,27-30)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ヨハ10,27

イエスが私たちを父のもとに導いてくださいますが、私たちを導こうとして、私たちに呼び掛けるのはイエスだけではなく、他にも多くの人がいます。ですから、私たちは実際にイエスに従うために、まずイエスの声を聞き分ける必要があるのです。いろいろな雑音で満たされている現在の世界に生きて、イエスの声を聞き分けるためには、やはり、神の言葉である聖書を読むことによって、イエスの声に耳を慣らす必要があると思います。

けれども、イエスの声を聞き分けることが大事であっても、実際にイエスに従うためには、それだけでは十分ではありません。イエスに従うために何よりも必要なのは、父である神のもとに近づきたいという望みと、イエスは本当に私たちを父である神のもとに導くことや、私たちに必要な力を与え、あらゆる危険から守ることができると信じて、イエスに信頼することなのです。

確かに、以上の望みや、信仰と信頼は、恵みですので、まずそれを願い求める必要がありますが、この恵みを受け入れるために、イエスと二人切りの静かな時間を過ごすことや、諸秘跡においてイエスと出会うこと、それから、イエスの体である教会の生活に参加すること、さらに今の自分の力が許す限りイエスの教えを実行することが、非常に重要なことになるのです。

イエスが復活されたと信じるのは、イエスが死者の中から立ち上がったことを認めるだけではなく、現在も生きておられるイエスと共に歩み、イエスの導きに従うことなのです。私たちは、イエスが死に打ち勝ったと認めることによってではなく、実際にイエスの導きに従うことによって父である神のもとに近づき、イエスの勝利と復活の栄光にあずかることができるのです。

全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、
わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。
キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、
聖人とともに喜びを分かつことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。