四旬節第4主日C年 (ルカ15,1-3.11-32)

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ15,31

ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。

考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が、私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、私たちが罰に対する恐れや何らかの報い欲しさで忠実な奴隷になるためではなく、愛に満たされた神の子になるためなのです。神が求めておられるように生き、神が示してくださった道を歩む人は、必ず父である神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い人になるものなのです。ですから、他の人に対して無慈悲な態度をとり、自分の行いに頼る律法主義者になっていたファリサイ派の人たちは、掟を守っているように見えても、実際に神がこの掟によって示してくださった道を歩んではいなかったということが分かります。

私たちは、ファリサイ派の人たちのように正しく生きようとしていても、神を愛するようにならずに、神と共にいることが私たちにとって何よりも大きな喜びにならないならば、たとえ神の国に入ったとしても幸せにはなりません。なぜなら、神の国というのは、食べたり飲んだりすることや他の手段によって体の感覚を喜ばせるところではなく、神と共にいて、神の愛と命にあずかる状態であるからです。

私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストがご自分の言葉と行いを以て示してくださった道を歩むことによって、神の愛といつくしみをますます深く知り、神に対する信頼と神との愛の交わりを深めることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは御子の苦しみと死によって、
ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。
キリストを信じる人々が、
信仰と愛に満たされ、
主の過越を迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第3主日C (ルカ13,1-9)

 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ13,3

正しく生きる人であっても、正しくない生き方をしている人であっても、おそらく、世の終わりまで他人の悪い行いやいろいろな事故によって、様々な害を受けることがあるでしょう。つまり、私たちは、いくら気をつけても、どんなことをしても、そのような苦しみを完全に避けることができないということです。

けれども、そのような苦しみを避けることができなくても、私たちは出逢う悪や苦しみによって滅ぼされること、また、命と最高の幸福の源である神から切り捨てられるというような、究極的な苦しみと同時に絶対的な悪を避けることができます。そのために必要なのは、悔い改めなのです。

悔い改めるということは、メタノイアをすること、つまり自分の考え方や価値観を正すということなのです。正しい価値観を持つということは、悪を悪として、すなわち自分に害を与えるものを害を与えるものとして認め、善を善として、すなわち自分を生かすものを自分を生かすものとして認めることなのです。

それは、簡単なことに見えるかもしれませんが、実際には難しいことなのです。なぜなら、私たちは互いに矛盾している情報を与えられていますし、多くの場合は善や幸福を楽しみや快楽と間違えて、物事の表面的な魅力や偽りの価値によって騙されるため、なかなか正しい判断ができないからです。

私たちは、善を悪から見分け、自分を生かすものを、自分に害を与えるものや自分を死なせるものから見分けるようになり、正しく考え、正しい判断したいならば、私たちを創造してくださったがゆえに、誰よりも私たちのことを知っておられる方、しかも、私たちを愛してくださり、私たちのために善のみを求めておられる方の言葉に耳を傾け、この言葉に従う必要があるのです。

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛の業によって、
わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
いつもあわれみをもって助け起こしてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

四旬節第2主日C年 (ルカ9,28b-36)

「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」ルカ9,35

よく祈る人は、安らぎや大きな喜び、また、神の愛や神の臨在を体験したことがあるはずです。恐らく、そのような体験をしている人は誰でも、少しでも長くそれを味わいたい、少しでもこの時間を伸ばしたいと望んでいるのではないかと思います。素晴らしい体験を与えられて、仮小屋を三つ建てようとしたペトロは、同じようにこの体験を手放したくなかったでしょう。けれども、この素晴らしい体験を与えた神は、ペトロに仮小屋を建てることを許したのではなく、イエスに聞き従うように命じたのです。

確かに、父である神が私たちにくださる賜物を喜んで受け入れて、それを心から楽しむことは良いことです。けれども、この賜物を自分の物にしたり、それを自分の楽しみや欲望を満たすために使ったりしてはなりません。なぜなら、その時、この賜物はその与え主が求めるような実を結ぶことができないだけではなく、私たちに害を与えることもありえるからです。

神が私たちにいろいろな賜物を与えてくださるのは、ご自分の栄光とご自分の愛を表すことによって、私たちの信仰、希望と愛を強めるためなのです。こうして強められた私たちが、神の愛する子であるイエスに忠実に従うことができるようになるのです。神の賜物を楽しむのではなく、イエスに従うことが一番重要なのです。なぜなら、それによってだけ、私たちは少しずつイエスの姿に変えられ、イエスと同じように神の心に適う神の子になるからです。最終的に、イエスのように神の心に適う神の子になるということは、私たちが創造された目的であり、私たちにとって最高の幸福、しかも永遠に続く幸福なのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

四旬節第1主日C年 (ルカ4,1-13)

「その期間が終わると(イエスは)空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった。」ルカ4,3-4

私たちは、この世に生きている限り、不満、不安、不幸、孤独、心配、戸惑い、恐れ、怒り、悲しみ、ねたみ、不正な感じ、無力感などのような感情を抱くことがあり続けるでしょう。このような感情は、一種の苦しみですので、その状態からなるべく早く脱出することを求めても、不思議ではありませんが、この際、いろいろな誘惑の被害者にならないように注意する必要があると思います。

この誘惑というのは、私たちをこの苦しみから簡単に解放することができるように見える手段なのです。多くの場合、それは間違った方法、つまり自分を、または、他人を傷つけることになるようなやり方でこの感情を発散することです。それから、苦しんでいる自分を慰めたり、苦しみの代償としたりするために、すぐに喜びや満足感を自分にもたらすような行いです。このような行いは、一時的な安定感を与え、今の苦しみを少し和らげることができますが、元々の問題を解決はしないし、そのような手段によって、いろいろな苦しみから簡単に逃げることができるという間違った考え方を強くし、非現実的な期待を持たせるのです。結果的に、人間を苦しめる感情が前よりも頻繁に浮かぶようになりますし、ますます強くなりますので、この人の苦しみも大きくなるわけです。

イエス・キリストは、私たちをあらゆる苦しみから解放し、永遠に続く喜びと平和を与えるためにこの世に来られましたので、私たちに表面的な慰めや一時的な安らぎを与えるのではなく、私たちの苦しみの問題を徹底的に解決する方法を教えてくださるのです。そのために、イエスが示してくださる道は簡単ではありませんし、望ましい効果をすぐに出すようなものでもありません。けれども、この道だけが確実なものでありますので、私たちはイエスに信頼して、この道を歩み続けることができますように祈りましょう。

全能の神よ、 
年ごとに行なわれる受難節の典礼を通して、 
わたしたちに、
キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。 
日々、キリストのいのちに生きることができますように。 
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

3月3日-3月9日(10週)

3日(日)年間第8主日

4日(月)年間第8月曜日

(聖カシミロ)

5日(火)年間第8火曜日

6日(水)灰の水曜日

7日(木)灰の式後の木曜日

(聖ペルペトゥア 聖フェリチタス殉教者)

8日(金)灰の式後の金曜日

(聖ヨハネ・ア・デオ修道者)

9日(土)灰の式後の土曜日

(聖フランシスカ -ローマ- 修道女)

年間第8主日C年 (ルカ6,39-45)

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカ6,45

誰しも、ゆるしの秘跡を受ける際に、または、他の機会に、自分の生き方を正す決心、つまり、悪い行いを止めて、良いことをする決心をしたことがあるのではないかと思います。そうだったならば、この決心を実現して、自分の生き方を本当に正すことができたでしょうか。おそらく、しばらくの間は、前よりも正しく生きることができたとしても、結果的に前の生き方、前の過ちや罪や怠りに、戻ってしまったのではないでしょうか。

イエス・キリストが教えてくださる通りに、本当の問題、つまり正しくない生き方の真の原因は、人間の心の中にあるのです。それは多くの場合、私たちが意識していない欲望、他の人や自分自身や神に対する非現実的な期待、また、根拠のない期待、間違った価値観やいろいろな執着、過去に負わされた心の傷などです。私たちが、自分の生き方を正すように強く決心して、全力を尽くしてこの決心を実行しようとしても、心の中にある原因自体が残っている限り、私たちの努力は空しくて、残念ながら失敗することに決まっているのです。

自分の生き方を正すために、罪やいろいろな過ちを犯さないように注意すること、努力することが大事ですが、同時に自分の心を知るように努力することも不可欠なのです。そのために、過ちであったとか、罪であったと思う行動を通して、自分が何を得ようとしていたのか、この行動の動機や原動力は何であったか、自分が何の感情に動かされたか、この感情は、何の期待や欲望を現しているかというような質問に対する答えを、自分の中で探究する必要があります。このようにして、自分の罪や過ちの原因を見つけたら、ただちにそれを意識的に手放すように努力する必要があるのです。

また、自分の「心の倉」から悪いものを捨てるだけではなく、「心の倉」に良いものを入れる必要もあります。最終的に正しい生き方とは、自分の努力の結果というよりも、神の働きの結果ですので、祈りをすることや神の言葉に耳を傾けること、また、自分にできることは何でも積極的にすることによって、何よりも神の働きに心を開くようにする必要があるのです。

万物を治められる神よ、
世界の歩みを力強く導いてください。
現代に生きる教会が人々に仕え、
平和のために尽くすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。