2月2日 主の奉献 (ルカ2,22-40)

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。』」ルカ2,28-32

生まれてから40日目に奉献されたイエスは、一生涯、聖霊の導きに従って、父である神の望みに適う人生を送ることによって、それを完全なささげものにし、人類の罪を贖い、神との和解への道を開いてくださいました。

洗礼を受けたときに、神の命を受け、神にささげられた私たちは、イエスに倣って、洗礼の恵みに忠実に生きることによって、つまり、聖霊の導きに従って生きることによって、私たちのすべてを父である神にささげることができますように。そして、父である神とのますます深い交わりに生きることによって、多くの人々を神のもとに導くことができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
御ひとり子は人となられ、
きょう神殿にささげられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、
罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第4主日C年 (ルカ4,21-30)

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」ルカ4,28-29

イエスが神の恵み、自由や解放について一般的に話した時に、ナザレの人たちは、その言葉を喜んで聞き、イエスをほめましたが、イエスが彼らの具体的な問題に触れた瞬間、彼らの気持ちが変わって、イエスを殺してしまおうとしたほどにまで怒りました。このような、イエスの言葉に対するナザレの住民の反応は、非常に多くの人の大きな問題を示しているのではないかと思います。

イエスはおっしゃいました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハ8,34)、と。イエス・キリストが言われたとおりです。罪を犯す人は、麻薬中毒者やアルコールの依存者と同じように、罪である行動から、この行動が実際にもたらすことのできないことを期待しています。そして、罪に騙されているということ、つまり自分が期待した通りに生かされているのではなく、逆に害をもたらされているということが分かっても、分かっていないふりをしたり、「いつでもこの道を離れることができるのだが、今はその必要がない」と自分に言い聞かせたりして、この間違った道を歩み続けます。そのうちに、何が正しいか、何が正しくないか、すなわち、何が自分を生かすか、何が自分を滅ぼすかということが分からなくなり、そのような生き方しかないと確信を持つようになって、滅びに向かっているこの道から離れることができずに、自分と周りにいる人にまで害を与え続けるのです。

この人は、「問題がない」とか、「何とかなる」とか、「心配しなくてもいい」というような話に喜んで耳を傾けますが、「あなたの生き方は間違っている」とか、「あなたの生き方をそのまま続けると滅びる」とか、「癒すために、苦い薬を飲んで、新しい生き方を身に付けなければならない」などのような話を聞くのは嫌いです。けれども、この話を聞いて、辛くても自分の現実を認めた上で、完全に癒すことのできる医者の指示に忠実に従うほかに、自由になる希望、また、心の中で求めている目的に向かって歩むようになる希望が、あるのでしょうか。

わたしたちの神である父よ、
心を尽くしてあなたに仕える喜びと、
すべての人を愛する恵みをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。