年間第17週

 

29日(日) 年間第17主日

30日(月) 年間第17月曜日

(聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士)

31日(火) 年間第17火曜日

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭 (記)

1日(水) 聖アルフォンソ(リゴリ)司教教会博士(記)

2日(木) 年間第17木曜日

(聖エウセビオ -ベルチェリ- 司教)、

(聖ペトロ・ユリアノ・エイマール司祭)

3日(金) 年間第17金曜日

4日(土) 年間第17土曜日

聖ヨハネ・マリア・ビアンネ司祭(記)

年間第17主日B年 (マコ6,1-15)

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」ヨハ6,11

恐らく、イエスが五千人に食べ物を与えた「ガリラヤ湖の向こう岸」というのは、ベトサイダのことです。イエスがフィリポにパンを売っているところを教えてもらいたがったのは、フィリポがベトサイダの出身であったので、この地方を良く知っていたはずだと思ったからでしょう。けれども、フィリポは、素直にイエスのお願いを適える代わりに、そんな大勢の人々のために十分にパンを買うことができるかどうかということについて心配したのです。

確かにフィリポには、集まっていたすべての人々を食べさせることができませんでしたが、パンを売っているところを教えることなら、フィリポにもできることでした。イエスがフィリポに話かけられたのは、フィリポ一人にこの群衆を食べさせるための労を取らせようと思ったからではなく、ただそれに協力するチャンスを与えようとされたからです。けれども、フィリポは余計な心配をしたので、持っていた力さえもイエスに貸すことなく、協力するチャンスを無駄にしてしまったのです。

多くの人々の精神的な貧しさや物質的な貧しさを見たり、世界にある様々な苦しみや悪を見たりして、すべての人々を助けたいという気持ちがあっても、私たちには助けることは決してできないのです。けれども、イエスはフィリポに対して、すべての人々にパンを与えることを要求しなかったように、私たちに対して、この世のすべての問題を解決することや、すべての人を救うことを要求しません。これは唯一の救い主であるキリストにしかできないことなのです。イエスが私たちに求めておられるのは、救いの業に力ある限り協力することだけなのです。この願いに応えるために私たちは、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年と同じように、素直にならなければならないでしょう。

信じる人の希望である神よ、
あなたを離れてはすべてがむなしく、
価値あるものはありません。
いつくしみを豊かに注ぎ、
わたしたちを導いてください。
過ぎ行くものを正しく用い、
永遠のものに心を向けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第16主日B年 (マコ6,30-34)

「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」エフェ2,17-18

イエスの教えは、決して簡単ではありませんが、イエスの時から今に至るまで、どんな時代の人も、どんな文化の人も、この教えに喜んで耳を傾けています。どうしてこの教えはそんなに多くの人の心に響くのでしょうか。それは、イエスが人間の最も深い望みについて語り、この望みを満たす方法を教えてくださるからではないかと思います。

残念ながら、イエスの教えを喜んで聞く人が多くても、それに実際に従う人は少ないようです。どうしてでしょうか。イエスの教えを聞いても、それを実行しない一人ひとりは、自分のことを見つめ直して、自分の人生においてイエスの教えを実行するのを妨げるものを、発見しなければならないのですが、一つの理由として考えられるのは、次のようなことではないかと思います。すなわち、人がただ自分の望みだけを満すために、イエスの教えに従って生きようとしているということです。なぜなら、このような動機に基づいてイエスに従おうとしている人は、自分の望みをもっと簡単に、もっと早く満たす方法があるというような話を聞くと、イエスの教えを捨ててしまって、その代わりにこの新しい教えを喜んで受け入れ、それに従ってしまう恐れがあるからです。実際に、そのような甘い話しに騙された人が大勢いるようです。

イエスに忠実に従い、自分の最も深い望みを満たしていただいた人とは、自分の望みを満たすためにイエスの教えを実行しようとした人ではなく、イエスを愛するようになって、どんな状況においてもイエスと共にいたいと望み、イエスの愛に忠実に生き、どうしても相互の愛の絆を守りたいと望むようになった人なのです。

私たちもイエスに最後まで従うためにイエスの言葉を聞いて、その教えを理解するように努めるだけではなく、イエスご自身を見つめて、イエスご自身を知るように努力しながら、イエスを愛する恵みを祈る必要があると思います。

年間第15週

15日(日) 年間第15主日

16日(月) 年間第15月曜日

(カルメル山の聖母)

17日(火) 年間第15火曜日

18日(水) 年間第15水曜日

19日(木) 年間第15木曜日

20日(金) 年間第15金曜日

(聖アポリナーリス司教殉教者)

21日(土) 年間第15土曜日

(聖ラウレンチオ -ブリンディジ- 司教教会博士)

(聖母の土曜日)

年間第15主日B年 (マコ6,7-13)

「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」エフェ1,3-5

聖パウロの言葉は、すべての人々に対する創造主である神の望み、一人ひとりのための神の計画について語っています。それによると、偶然に生まれた人は一人もいなくて、皆が神によって望まれて生まれましたし、生まれる前から神に愛されているのです。神は、一人ひとりをご自分の愛と命で満たし、ご自分の子にして、永遠に切れることのない絆によって、ご自分の子たちと結ばれていたいと望んでおられます。この望みを実現するために神は、私たちに必要な祝福、必要な恵みと力を、常に与えておられるのです。

聖パウロの言葉は、すべての人々の偉大さ、一人ひとりの尊厳を表しています。この言葉が真実であることを信じて、自分自身の尊さ、また他の人の尊さを知った人は、必ず自分自身に対する態度も他の人に対する態度も変わるに違いないと思います。すべての人々がこのように変わったならば、世界そのものはどれほど変えられるのでしょうか。

考えてみれば、多くの場合、人間関係の問題、いろいろな不正や犯罪、また罪の原因とは、人間の悪意ではなく、人々が自分自身の価値、自分の尊さを知らないということなのです。というのは、自分の価値を知らない人は、自分自身を尊敬しないし、自分をありのまま受け入れはしない、つまり自分を愛していないのです。この人が、もし、何らかの悪を行うならば、それは、他の人に尊敬されるために、また愛されるために、自分自身に足りないと思うような善を得るためなのです。つまり、他の人の尊敬や愛にもっと相応しくなるためなのです。ときに、このような善を得るのは不可能であると思うようになると、絶望に陥って、妬みや怒りに支配されて、さらに極端な悪を行うこともあるでしょう。

もし、この人が自分の価値と自分の尊さを知ったならば、さらには、もうすでに尊敬されているし、愛されているということを実感したならば、他人の期待によって振り回されたり、他人と競争したり争ったりすることなく、与えられている愛と命を自ら進んで他の人に伝えるようになる、つまり他の人を愛するようになるのです。

イエス・キリストによって自分自身の価値と尊さを知り、神の愛と命を受けて神の子になった私たちは、この身分に相応しく生きることによって、自分自身の価値や尊厳をまだ知らない人々に、価値と尊厳を知らせることができますように祈りましょう。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第14週

8日(日) 年間第14主日

9日(月) 年間第14月曜日

(聖アウグスチノ・チャオ・ロン司祭と同志殉教者)

10日(火) 年間第14火曜日

11日(水) 聖ベネディクト修道院長(記)

12日(木) 年間第14木曜日

13日(金) 年間第14金曜日

(聖ハインリッヒ)

14日(土) 年間第14土曜日

(聖カミロ -レリス- 司祭)
(聖母の土曜日)

年間第14主日B年 (マコ6,1-6)

「イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。』」マコ6,2

イエスはナザレで育てられたので、ナザレの人々はイエスのことなら、良く知っていると思っていました。確かに、彼らはイエスの職業とか、お母さんや親戚の名前とかを知っていました。けれども、最も大事なこと、イエスの最も大切な特徴を知りませんでした。それはどういうことかというと、イエスの父は神ご自身であるということです。やはり、イエスは神の子であることや、イエスはすべての人を救うために、この世に父である神によって遣わされたこと、また、イエスの知恵と力と愛が、神ご自身の知恵と力と愛を示していることを知らない限り、イエスを本当に知っているとは言えないのです。

その意味で、イエスの弟子たちもこの時点では、イエスをまだ知りませんでした。けれども、弟子たちはナザレの人たちと違って、イエスを知らないということを意識していましたし、そして、イエスを知るようになるために、開かれた心を持って、イエスに従っていました。結果として、彼らはイエスの本性を知るようになって、イエスを愛するようになり、自分の人生をイエスと結ぶことによって、神ご自身の命にあずかるようになったのです。

私たちも、弟子たちのようにイエスを本当に知るようになりたいならば、イエスをまだ十分に知らないという事実を認めた上で、イエスについての言葉だけではなく、イエスご自身の言葉を聞き、そして聞いた言葉を楽しんだり、この言葉について論じ合ったりするだけではなく、実際にこの言葉に従って生き、この言葉によって自分自身が変えられることを、承諾しなければならないのです。

聖なる父よ、
あなたは、倒れていた世界を、
キリストの死によって
新しいいのちに立ち直らせてくださいました。
信じる者を罪の束縛から解放し、
終わりのない喜びにあずからせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。