ご復活祭、おめでとうございます!

復活して、今も生きておられるイエス・キリストを信じている人、つまり、イエスを愛している人は、金持ちにならないかもしれません。また、ずっと健康的で、苦しみのない生活を送ることができないかもしれませんし、他の期待や欲望も満たされないし、望ましそうな利益を手に入れることもできないかもしれません。

けれども、この人はどんな状況においても愛に生きるために必要な力を与えていただけるし、人生において出逢うあらゆる苦しみや他の悪をこの愛を深めるために利用する力をもいただけるのです。

私たちは、イエスからいただいている力によって、いつも共にいてくださるイエスへの愛に忠実に生きるならば、私たちをイエスと結ぶ愛が完成されて、イエスと一つになることができます。そして、イエスと一つになることによって、父である神と、また、愛に生きている他の人々と一つになることもできます。要するに、人生の目的にたどりつき、他の人と共に神ご自身の最高の幸福の内に、終わりなく愛に生きることができるのです。

復活の主日 (ヨハ20,1-9)

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ3,1-2

使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる、「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのようなことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しめられる恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。

そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何か宗教的なことや神学的なことよりも、もう絶対に会うことのできないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が、可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだことでしょうか。

そして、それよりも素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しくて、あらゆる困難を乗り越えることのできるほど強い愛であっても、それには必ず死別による終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることができます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことができないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上に素晴らしいこと、それ以上に喜ばしいことがあるのでしょうか。

イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。イエスを信じている人は、ヨハネや数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることができると思います。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8,38-39)と。

これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。

全能の神よ、
あなたは、きょう御独り子によって死を打ち砕き、
永遠のいのちの門を開いてくださいました。
主イエスの復活を記念し、
この神秘にあずかるわたしたちを、
あなたの霊によって新たにし、
永遠のいのちに復活させてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

聖金曜日 (ヨハ18,1-19.42)

「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」ヨハ 19,14-16

イエス・キリストは、父である神に遣わされて、人間が幸せに生きるために絶対に必要としている愛、神ご自身の愛、永遠の愛を私たちのもとに持って来てくださいました。しかし、人々は、イエスを大きな喜びと感謝のうちに迎え入れる代わりに、イエスを十字架につけて、イエスと共にイエスが持って来てくださった愛を滅ぼそうとしたのです。これ以上に愚かなことがあるでしょうか。

残念ながら、この悲しい出来事は、人類の歴史において一回限りのものではありません。私たちが与えられた愛を何の価値もない利益や一時的な快楽のために利用しているとき、また、この愛を傷つけ、無駄にしてしまうとき、キリストとその愛が、2000年前と同じように十字架に付けられているのです。

人類は、犯してきた過ちから何も学ばないのでしょうか。そんな愚かな人間には、一体、心の望みが満たされる希望、完全に幸せになる希望があるのでしょうか。

全能、永遠の神よ、
御独り子キリストの受難によって、
あなたはすべての人に及ぶ死の遺産を打ち砕いてくださいました。
罪の重荷を負うわたしたちが、恵みによって聖とされ、
キリストに結ばれて新しい人となりますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

聖木曜日 (ヨハ13,1-15)

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」ヨハ13,15

最後の晩餐の時点で、ペトロは、イエスの教えもイエスの行いもまだよく分かりませんでしたし、イエスを十分に愛していなかったがゆえに、イエスに最後までついて行くことができませんでした。確かに、ペトロはいろいろな意味で弱くて、不完全な人間でしたが、イエスが言われた通りに、ペトロは心からイエスの愛に応えたいと望んでいたのです。そのためイエスは、ペトロがいつか必ずイエスの教えや行いを理解することができるようになり、イエスご自身が歩んだ愛の道、つまり、いつくしみ深い父である神のもとへと導く道を歩めるようになり、多くの人々をこの道に導くようになるという確信を持っておられたのです。

私たちは、自分の限界を認識しながらも、ペトロの姿に励まされ、自分自身に対して忍耐を持って、イエスから学んだことを実践することによって、ますます力強く愛の道を歩み、完全な愛に辿り着くことができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたのひとり子は死に向かわれる夜、
食事をともにして、
新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだになりました。
この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、
キリストの愛を受け、生きる喜びに満たされますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

受難の水曜日 (マタ26,14-25)

「イエスはお答えになった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』」マタ26,23-24

人間は、愛に生きるために創造された存在ですので、愛に生きるときだけ人間らしい生活を送りますし、完全な愛が人間にとって最高の幸福なのです。この事実は、人間の心に深く刻まれているがゆえに、それをはっきりと意識しなくても、誰でも愛を求めて、それを絶えず探しているのです。けれども、愛を見つけても、それに忠実に生きる代わりに、イスカリオテのユダのようにそれを裏切り、自分の快楽や他の利益のためにこの愛を利用しようとしている人は、不幸ですし、回心しなければ、正にイエスが語っておられる通りに、「生まれなかった方が、その者のためによかった」ことになるのです。

私たちは、与えられている愛に忠実に生きることによって成長し、この愛を出会う人と分かち合うことができますように祈りましょう。

神よ、
あなたはわたしたちを悪の力から救い出すために、
独り子が十字架にかけられることをお望みになりました。
御子の復活の恵みにわたしたちをあずからせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

受難の火曜日 (ヨハ13,21-33.36-38)

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」ヨハ13,21

十二人の弟子たちが元々イエスに従ったのは、自分の利益を求めたからです。その内十一人の弟子たちは、イエスを知れば知るほどイエスを深く愛するようになり、イエスに従う動機を変えて、イエスから与えられた使命を果たすことによって、想像した以上に豊かな人生を送ることができましたし、その生き方によって数え切れないほど多くの人の人生を、豊かなものにすることができたのです。けれども、自分の動機を変えられなかったイスカリオテのユダは、イエスを裏切って、イエスを殺そうとした人々の手に彼を引き渡しただけではなく、自分自身も滅ぼしてしまったのです。

私たちが、イエスに従う自分の動機を認識することができますように。そして、必要に応じてそれを正すことによって、神の子ども、イエスの弟子として、ますます誠実に生きることができますように祈りましょう。

全能、永遠の神よ、
主キリストの受難の神秘を記念するわたしたちが、
罪の赦しを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

受難の月曜日 (ヨハ12,1-11)

「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。」ヨハ 12,2

命をはじめ、すべてのものの与え主である神は、人間から何も必要とされておられませんが、ただ私たちの愛だけを求めておられるのです。

私たちは、ラザロ、マルタとマリアに倣って、イエスと共に食卓を囲み、イエスに奉仕し、私たちの最も大切なものをイエスにささげることによって、イエスに対する愛を表すことができますように。そして、ますます深い愛の交わりのうちに生きながら、日常生活において出会う人に神ご自身の愛を現すことによって、多くの人々を父である神のもとに導くことができますように祈りましょう。

全能の神よ、
弱さのうちに倒れてしまうわたしたちを顧み、
独り子の受難の力によって強め、
立ち上がらせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第5土曜日 (ヨハ11,45-56)

「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」ヨハ11,47

もし、イエス・キリストが、ご自分に対して敵意を持っていた人々と同じように、ご自分の命を最優先にしていたならば、イエスの命を狙う人がどれほど大きな権力を持っていても、その狙いを適えることはできませんでした。イエスを殺害する計画を立てた人たちがその計画を実現することができたのは、イエス・キリストがご自分自身を彼らの手に引き渡したから、また、すべての人を罪の束縛から解放するためにご自分の命を全く自由に奉献してくださったからです。

明日から始まる聖週間の典礼に参加し、この地上でのイエスの最後の数日間を記念し、それを想起することによって、イエスの愛の偉大さを一層強く実感し、信仰、信頼と愛の絆によってイエスと一層固く結ばれ、どんな状況においてもイエスに忠実に従うことによってイエスの愛に応え、それを他の多くの人々に現すことができますように祈りましょう。

救いの源である神よ、
聖週間を迎える今、あなたの民に豊かな恵みを注いでください。
洗礼の恵みを受けたわたしたちが、
洗礼志願者とともに、選ばれた民として主の過越に近づき、
その喜びにあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

受難の主日B年 (マコ11,1-10;マコ15,1-39)

「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」マコ 11,9-10

エルサレムに入城されたイエスを王様として歓迎している群衆を見ると、イエスの活動は大成功したように見えます。その時、イエスに従った弟子たちは、イエスの仲間であることを誇りに思っていたに違いないと思います。けれども、ホサナ(私たちを救ってください)と叫んだ群衆は数日後に、「十字架に付けろ」と叫ぶようになってしまったし、殆どの弟子たちは、イエスの仲間であると認める勇気がなくて、イエスから離れてしまったのです。

恐らく群衆がイエスを王様として迎えたのは、 続きを読む 受難の主日B年 (マコ11,1-10;マコ15,1-39)