1月17日 年間第2水曜日 (マコ3,1-6)

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」マコ3,5

人間の頑なな心は、イエスの深い悲しみと怒りの原因となっています。なぜなら、その人が心を開かない限り、父である神は御ひとり子を与えるほどに人を愛しておられても、その人に必要な善を与えることも、愛を心の中に注ぐこともできないし、その人は、神の尊い恵みを無駄にし、他人を傷つけ、自分の滅びを招くことになるからです。したがって、この怒りは人に対する怒りではなく、それだけ酷い結果をもたらす頑なな心という現状に対する怒りなのです。

ますます多くの人々が、神のいつくしみ深い愛の素晴らしさを知り、父である神に信頼するようになり、心を開いて神の愛と命を受け入れることができますように祈りましょう。

1月16日 年間第2火曜日 (マコ2,23-28)

「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。』」マコ2,27

神が、掟によって人間を支配したり、コントロールしたりすると考える人が大勢いるようですが、イエス・キリストが教えているとおりに、人間が作った法律と違って、神が与えてくださった掟は、必ず人のためになるものなのです。つまり、神が何かを禁じるのは、それが人間にとって悪いもので、害を与えるものであるからです。また、何かを命じるのは、それが人間にとって良いもので、人間を生かすものであるからです。

私たちは、父である神がイエス・キリストを通して与えてくださった教えを、永遠の命への道しるべとして受け入れ、この教えが示している道を歩むことによって、人間として成長し、完成されますように祈りましょう。

1月15日 年間第2月曜日 (マコ2,18-22)

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」マコ2,22

新しいぶどう酒が、古い革袋ではなく、新しい革袋に入れられるときだけ、保管され役に立つものとなるように、人間は、イエス・キリストを受け入れることによって、父である神と新しい関係に生きるようになり、それによって初めて、イエスの教えによって生かされて、豊かな人生を送ることができるのです。

私たちはイエスと共に、イエスがご自分の言葉と模範を通して示してくださった道を歩むことによって、常に成長し、イエスご自身の姿に変えられますように祈りましょう。

 

1月14日 年間第2主日B年 (ヨハ1,35-42)

「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」ヨハ1,35-37

神の指示に従って、ユダヤ人たちは神に小羊や他の動物をいけにえとしてささげることによって神を礼拝したり、いただいた恵みに感謝したり、新たな祝福や犯した罪のゆるしを願ったりしました。これは、そのとき神のことを殆ど知らなかった人たちが神と関わる方法、人間が神に近づくためのその心の状態や理解力に合わせて神が与えられた方法でした。

残念ながら、時が立つにつれて、この儀式は人の心の状態と何の関係もない形式的なものになりました。そのために、人々はそれを行うことによって神に近づく代わりに、神から遠ざかっていったのです。

洗礼者ヨハネは、イエスを見て、彼が「神の小羊」であると宣言しました。「神の小羊」というのは、神が人類に与える捧げ物であるという意味だったのでしょう。要するに、イエスこそ、神が人類に近づく、人々と交わる新しい方法であるということです。

残念ながら、人々はこの賜物を喜んで受け入れる代わりに、神の望みに逆らって、イエスを十字架につけ、殺してしまったのです。もし、人類の歴史がその瞬間で終わったならば、神に近づく希望が完全になくなったし、人類は永遠に神から離れた状態に留まり、つまり、永遠の死に定められたことになったに違いありません。

幸いにイエスは、ご自分を十字架につけた人々のためにゆるしを願ってから、ご自分の命を神にささげました。それによって、イエスは人間が犯したこの最も大きな罪を完全な奉献に変えてくださったのです。この奉献のおかげで、人間が神との親しい交わりに生きることが可能になったと同時に、神の命にあずかることによって、神の子どもになることも可能になったのです。

神の小羊であるイエスのいけにえの実りにあずかるために、今私たちは、イエスの最初の弟子と同じようにただイエスに近づき、イエスと絆を結び、親しい交わりのうちに生きるだけで十分なのです。

天地万物を治められる神よ、
あなたの民の祈りをいつくしみをもって聞き入れ、
世界に平和への道を示してください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

1月13日 年間第1土曜日 (マコ2,13-17)

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」マコ2,17

どこにでもおられ、何でも見ておられる神が存在しさえしなかったならば、人間は罰せられずに、何の心配もすることなく罪を犯すことができたと思う人がいますが、それは大きな誤解なのです。罪を犯した人が体験しているいろいろな苦しみは、神が与える罰ではなく、罪の結果なのです。医者が病気の人を癒すように、神は罪によって苦しみ、自由を失った人を助け、解放するように働いておられる方なのです。

私たちは、罪を犯すことがあれば、私たちを愛し罪から解放することのできる方が、一緒にいてくださることに希望を見出して、レビのように心を開いて、罪の最終的な結果を味わうことにならないうちに、癒しの恵みをいただくことができますように祈りましょう。

1月12日 年間第1金曜日 (マコ2,1-12)

「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」マコ2,3-4

人間は神の命と愛にあずかるために創造されていますので、神との愛の交わりに生きているときだけ、真に幸せです。それゆえに、誰かを神のもとに導くことは、この人のために最善のことを行うことであり、最高の愛の実践なのです。

私たちは、様々な妨げに出遭っても、それを乗り越えて、ますます多くの人々を、人間と神との唯一の仲介者であるイエス・キリストのもとに導くことができますように祈りましょう。

1月11日 年間第1木曜日 (マコ1,40-45)

「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」マコ1,45

イエスは重い皮膚病を患っている人に触れることによって、実際にこの人を清めましたが、ユダヤ人の法律上、逆にイエスが汚れたものになりましたので、癒された人が清くなったという証明書を祭司からもらわない限り、イエスは公の場所に行くことができませんでした。癒された人がイエスの言葉に従わなかったために、町に入ろうとしたイエスは自分の計画を実現することができませんでした。けれども、イエスが「人のいない所に」とどまっていても、(もしかして町に滞在していた人よりも)多くの人が四方から集まったので、かえってイエスは元の計画よりも、大きな働きをすることができたのです。

私たちは邪魔されて、思い通りにならないときにも気を落とすことなく、悪や他の望ましくないことから、より大きな善を引き出すことのできる神を信頼して、与えられた使命を果たすために、働き続けることができますように祈りましょう。

 

1月10日 年間第1水曜日 (マコ1,29-39)

「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」マコ1,30

イエスによって癒されたペトロのしゅうとめが示しているとおり、イエスの弟子が誰かに奉仕するのは、神から報いとして何かをいただくためではなく、もうすでにいただいた無償の恵みに感謝するためなのです。

私たちは、今までいただいた恵みを新たに想い起して、その賜物において父である神の無条件の愛を見出して、私たちの助けを必要としている人々に奉仕することによって、父である神に感謝の念を表すことができますように祈りましょう。

1月8日 主の洗礼B年 (マコ1,7-11)

「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」マコ1,8

洗礼者ヨハネから洗礼を受けていた人は、まず自分の罪を告白し、回心を表明してから、水に浸されました。それは一種の「清めの儀式」であって、人の霊的な現実を変えることのできるようなものではありませんでした。洗礼者ヨハネはそれをはっきりと意識していましたので、自分より後に来られる方が、水だけではなく「聖霊で洗礼をお授けになる」(マコ1,8)と語ったわけです。

水による洗礼と違って聖霊による洗礼は、人間の霊的な現実を全く変えてしまうものなのです。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることは、受洗者を水に浸すのではなく、三位一体の神の命に「浸す」ということ、すなわち、この人を神に奉献するということなのです。イエスが十字架上でご自分自身を父である神に奉献されたことによって、すべての人々を罪の奴隷状態からあがなってくださいましたので、今洗礼を受ける人は、神の霊、すなわち、神の命に満たされて、神の子どもになります。聖パウロが言うように、この人は「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェ 2,19)ます。

私たちは、洗礼を受けることによって、確かに愛されている神の子どもになりましたが、必ずしも神の心に適う子になっているとは限りません。神の心に適う子、つまり愛されているだけではなく愛している子になるために、洗礼の時に与えられた聖霊の導きに従って生きる必要があるのです。

聖霊の導きに従って生きることは、自分の成長のために必要ですが、それだけではなく、洗礼の時に与えられた使命、つまり神の国を証しし、福音を宣べ伝えるという使命を、果たすためにも必要なのです。

1月9日 年間第1火曜日 (マコ1,21b-28)

「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」マコ1,21-22

ただ学んだことを伝えていただけの律法学者と違って、イエス・キリストは、自らが体験されたこと、実行していたことを宣べておられましたからこそ、イエスの言葉には力と権威があったのです。

神の国の福音を宣べ伝える使命を与えられている私たちは、いつもイエスと共に神の国の現実に生きることによって、言葉よりも自分の生き方で、この使命を果たすことができますように祈りましょう。