受難の主日B年 (マコ11,1-10;マコ15,1-39)

「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」マコ 11,9-10

エルサレムに入城されたイエスを王様として歓迎している群衆を見ると、イエスの活動は大成功したように見えます。その時、イエスに従った弟子たちは、イエスの仲間であることを誇りに思っていたに違いないと思います。けれども、ホサナ(私たちを救ってください)と叫んだ群衆は数日後に、「十字架に付けろ」と叫ぶようになってしまったし、殆どの弟子たちは、イエスの仲間であると認める勇気がなくて、イエスから離れてしまったのです。

恐らく群衆がイエスを王様として迎えたのは、 続きを読む 受難の主日B年 (マコ11,1-10;マコ15,1-39)

四旬節第5主日B年 (ヨハ12,20-33)

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり(ました。)」ヘブ5,8-9

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハ12,25)というイエスの言葉の意味を表すために、それを「自分のことを何よりも大切にする者は、自分の滅びを招くが、自分よりも、誰かを大切にする人は、生かされる」という言葉に変えることができると思います。

「自分のことを何よりも大切にする者」とは、誰のことでしょうか。それは、自分の楽しみや満足、つまり自分の要求を満たすために利用できるもの、たとえば物資、植物、動物、人間など何でも利用し、そのものに何らかの害を与えているかどうか、また、そのものを滅ぼしているかどうかを全然気にしない人のことです。要するに、「自分のことを何よりも大切にする者」とは、自分さえ良ければいいと思っていて、誰をも愛していない人のことです。このように生きている人は、意識しなくても、「この世の支配者」と言われたサタンの望みに従いますし、サタンに仕えていますので、この生き方を変えない限り、サタンと同じ運命にあずかるようになっても驚くべきことではないでしょう。

人間は、誰かを愛するようになれば、 続きを読む 四旬節第5主日B年 (ヨハ12,20-33)

四旬節第4主日B年 (ヨハ3,14-21)

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」ヨハ3,19

もし、あなたが心から求めているものを見つけた時に、余計な荷物を手にしていたならば、どうしますか。恐らく、殆どの人は、自分の手を自由にするためにこの重荷を下して、空いた手で見つけたものを手に入れると答えるのではないでしょうか。これは、常識だと思いますが、実際に私たちはそのような常識に従わないことが少なくないようです。

私たちが持っているものに執着し、また、物質的な物だけではなく、物事に対する自分の理解や自分の生き方に慣れすぎると、それ無しに生きることはあり得ない、少なくとも、それなしに生きることは難しいという確信を持つようになり、それを失うのを恐れるようになります。そのために、このような執着や慣れが、常識に従うことができない一つの理由になるのです。

けれども、 続きを読む 四旬節第4主日B年 (ヨハ3,14-21)

四旬節第3主日B年 (ヨハ2,13-25)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」ヨハ2,15-16

神は、いつも私たちと共におられるし、ご自分の愛を表してくださり、私たちの心の中でご自分に対する愛を起こそうとしておられます。神がこのようにされるのは、私たちを愛によって、愛に生きるために創造してくださり、私たち一人ひとりが愛をもって神の愛に応えることを常に望んでおられるからです。この望みを実現すために神は、イスラエルにご自分との交わる場として神殿を建てるように命じたのです。

イエスは、神殿から商人を追い出すことによって、そこで行われていた儀式がもはや神の心に適うものではなくなっていて、本来の役割を果たしていないことを示そうとしました。当時はこのしるしを誰も読み取ることができませんでしたが、神殿が神との出会いの場になっていて、命と祝福を受け入れるところであるように見えても、実際にそうではなかったという事実は、凡そ40年後、神殿が破壊されることによって明らかにされたのです。

エルサレムの神殿は壊されましたが、それを建て直す必要はありません。なぜなら、 続きを読む 四旬節第3主日B年 (ヨハ2,13-25)

四旬節第2主日B年 (マコ9,2-10) 

「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」マコ 9,7

非常に多くの人々は、とても単純な規則に従って生きているようです。それは何かというと、楽しみや愉快をできる限り増やすことと、悲しみや苦痛をできる限り減らすことなのです。恐らくそのような生き方によって、できる限りの幸せな人生を送れるものと思っているのでしょう。けれども、実際に楽しいものであっても、人に害を与えるものもあれば、苦しみが伴っても、人間のために良いものがあります。幸福を求めてこのような規則に従って生きる人は、害を招いたり、善を拒否したりして、結果的に不幸になっても不思議ではないと思います。

イエスは全く違う規則、決断や選択の違う基準を私たちに与えてくださいます。この基準というのは、楽しみや愉快でもなければ、悲しみや苦痛でもありません。それは愛、つまり隣人のために善を求めることなのです。

確かに人が、この規則に従って愛に生きるなら、大きな喜びを体験することもあれば、大きな悲しみや苦しみを体験することもあります。けれども、この人はどんな目にあっても、愛し続けることができるならば、出会ったすべての人のためにいつも善を行い、必ず人間として成長しますし、そして、何よりも重要なこととして、人間の真の幸福の源である神に近づき、神との絆をますます強めるのです。これこそ、この人にとっても、この人が会う他者にとっても、最善の生き方になるのです。

聖なる父よ、
あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。
みことばによってわたしたちを養ってください。
信仰の目が清められて
あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第1主日B年 (マコ1,12-15) 

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ1,14-15

イエスと洗礼者ヨハネが、全く同じ言葉をもってそれぞれの活動を始めました。けれども、同じ言葉を語っても、二人とも、全く異なることを述べ伝えようとしたのです。

まず、洗礼者ヨハネにとって、「神の国」というのは、神の裁きのことで、「神の国が近づいた」ということは、神の裁きの日が迫ってきたという意味でした。洗礼者ヨハネによれば、神は非常に厳しい審判を行いますので、苦しい罰を避けるために、神から裁きを受ける前に悔い改めて、良い実を結ばなければならないということでした。ヨハネはこの言葉によって人の心に恐れをもたらし、回心をさせようとしたわけです。

イエスにとって、「神の国」とは、人間の神との愛の交わりのことです。「神の国が近づいた」とは、ご自分の到来とともに、神との愛の交わりの可能性が近づいて、ご自分が成し遂げる救いのわざの結果として、この交わりがすべての人々にとって可能になるという意味でした。こうして、イエスは洗礼者ヨハネと違って恐れをもたらすことによってではなく、良い知らせを伝え、人間に希望を与えることによって回心へと呼びかけたわけです。

神ご自身がイエス・キリストにおいて、罪を犯したことによって神から離れた人々に近づき、イエス・キリストの愛と命による最高のいけにえによって私たちの罪をあがなって、全人類と和解してくださったがゆえに、人間の心の最も深い渇望が満たされることが実際に可能になったのです。ですから、神の国に入る可能性は報いではなく、神の無償の賜物なのです。しかし、この賜物を受け入れるために、私たちは神のみ旨に適わない生き方をやめて、イエス・キリストを自分の人生に受け入れることによって父である神を受け入れる必要がありますので、「神の国が近づいた」というイエスの呼びかけに励まされて、悔い改めることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
年ごとに行なわれる受難節の典礼を通して、
わたしたちに、
キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。
日々、キリストのいのちに生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。