聖霊降臨の主日C年 (ヨハ14,15-16.23b-26)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハ14,15-16

イエス・キリストの霊を受ける人は、イエス・キリストと同じように愛に生きる能力を受け入れます。この能力を発展させ、実らせるために、愛を実践する必要があります。

愛を実践する努力は、愛の能力を発展させ、自分の中にある愛を成長させるために、必要であるだけではなく、聖霊の働きを受けるためにも、結果的に、私たちの愛が完成されるためにも不可欠なものなのです。

というのは、聖霊は、ただの力や能力だけではなく、父である神とイエス・キリストと同じように生きた神であり、ペルソナ(位格)でであるからです。聖霊は、私たちを愛してくださる方、私たちの愛を求めておられる方なのです。すべての人々がその望みに応えて、愛に生きるように、聖霊は常に働いてくださいますが、私たちの自由意志を尊重しておられますので、私たちの承諾がなければ、私たちの内で自由に働くことができないのです。

愛に生きるための私たちの努力は、私たちが求めるような成功を収めなくても、聖霊の導きに従いたいという私たちの望みの表現でありますので、必ず、聖霊との交わりを深めるものになっています。同時に、この努力は、聖霊の働きを承諾する表現にもなっていますので、私たちが愛を実践するように努力すればするほど、聖霊がますます自由に、ますます力強く私たちの中で働くことができるのです。

私たちの努力の結果というよりも、聖霊の働きの結果として、私たちは、愛に生きることを不可能にするいろいろな束縛から自由になり、少しずつイエス・キリストが愛したように、愛するようになりますし、イエス・キリストご自身の姿に変えられて行くのです。

すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第5主日C年 (ヨハ13,31-33a.34-35)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハ13,34

殆どの人は、自分の人生において何か足りないとか、自分の心が何かに飢え渇いていると感じても、それが具体的にどんなものであるのかが分からないようです。そのために、いろいろな物を追求しますが、どんなものを手に入れても、なかなか満足しないのです。人間は愛によって神と結ばれて、いつまでも神の命と至福にあずかるために創造されましたので、愛に生きていない限り、決して満たされることもなく、心が飢え渇き続けるのです。

けれども、自分の心が満たされるために愛が必要であると分かっても、愛とは何であるかが分からない人が殆どです。例外もあるでしょうが、私たちが子どもの時から体験している「愛」というのは、私たちを愛してほしいと思う人の期待に、応える代わりにもらう報いのようなものです。私たちが言われたことに聞き従ったり、良く勉強したり、スポーツが上手くできたり、親切であったり、お金や他のものを貸したりするとき、それで喜んだ人にほめられたり大事にされたりする時に、愛されているように感じるのではないでしょうか。そのような「愛」を体験して来た人は、自分を喜ばせる人に対して好意を持ったり、この人に優しくしたりする時、この人を愛していると思うのでしょうが、それは悪いことではなくても、私たちが心の奥底で求めている愛ではないのです。

本当の愛を知りたいならば、この愛に生きたイエス・キリストを見つめる必要があります。イエスが示した通りに、真の愛とは、無償で、無条件に相手のために真の善を行うことです。本当に愛する人は、それが自分の喜びになっている時だけではなく、苦しみになっている時でさえも善を行い続けるし、相手を高めるために自分の時間や力だけではなく、必要に応じて自分の命までささげます。確かに、自分がこのように愛されたら素晴らしいことです。けれども不思議なことに、人間の心が満たされるのは、人間がこのように愛されている時ではなく、誰かをこのように愛している時だけなのです。なぜなら、このように愛することによってだけ、私たちは私たちの人生の目的である神と一体になるからです。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第3主日C年 (ヨハ21,1-19)

「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」ヨハ 21,18

多くの人が相手のとがをゆるすということは、相手の弱さや相手が行った悪に目をつぶって、見えない振りをしたり、それを忘れたりすることや、仕方がないからと思って悪いことを我慢することや、相手の行為が悪かったにもかかわらず、それを正しいものや良いものとして認め、その人を無罪にすることであると考えているようです。その考えが正しければ、ゆるすことは結果的に、相手にそのまま生きる許可を与えることになり、相手の成長を止めることになるでしょう。

復活されたキリストは、ご自分を裏切ったペトロに現れ、彼に彼の罪を認めさせてから、イエスが集めた人々を導くという使命を再び与えてくださいました。そして、ペトロがイエスに従い、この使命を果たすならば、つまりイエスと共に生きるならば、自分の弱さや罪から解放されて、愛において成長し、心の望み通りに、イエスと同じように完全に愛するようになるということを約束してくださったのです。

ペトロに対するイエスの態度を見ると、ゆるすということは、悪かったことを悪かったこととしてはっきりと認めた上に、相手を否定せずに、相手に対して希望を持って信頼しつづけること、また、その人の成長を信じて、この成長を支えることであるということが分かります。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第6主日B年 (ヨハ15,9-17)

「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」ヨハ15,10

イエスと出会うことによって神の愛を体験した人の心には、イエスのように愛したいという望みが生まれることがよくあります。この望みは、人生を照らし、それに素晴らしい目標と意義を与え、大きな喜びの源となります。けれども、イエスのように愛に生きることを強く求めても、全力を尽くして愛するように努力しても、なかなか思い通りに行かないのが殆どです。

こうして、自分の望みと自分の現実との間には緊張が生まれます。この緊張は、今まで知らなかった苦しみを生み出します。この苦しみを和らげるために、イエスのように愛することが不可能であると決めつける人がいます。確かに、この望みを非現実的なものであると思うようになって、それを諦めれば楽になりますが、同時にこの人の愛も成長することができなくなりますし、結果的に本当にイエスのように愛することができなくなるのです。

イエスが私たちに向かって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ15,12)と言われたならば、私たちには、必ずそのような能力があるということです。この能力を生かして、イエスが愛したように愛するようになるために、まずイエスの言葉が本当に可能な目標を示していると信じて、その目標と今の現実とのギャップが生み出す苦しみを受け入れる必要があります。それから、たとえそれを自分が求めている愛と比較して、今の自分の愛は小さくて無に等しいものであると思っても、今自分が持っているこの小さな愛の実践に心がける、つまり、慌てずに、イエスの教えに一歩ずつ従って生きる必要があるということなのです。

全能の、神である父よ、
復活された主イエスの記念を真心こめて祝います。
この喜びを、
わたしたちが日々の生活の中に保つことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第5主日B年 (ヨハ15,1-8)

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」1ヨハ3,18-20

回心する前にファリサイ派に属していたパウロは、他の多くの人よりも律法を知っていましたし、他の多くの人よりも律法の定めに忠実に生きていました。それゆえに、パウロは、他の人よりも優れていると思って、自分が完璧な人間であるという自信を持っていたのです。

けれども、その時のパウロは律法の文字に忠実であっても、律法の精神から遠く離れていました。彼の生活には強い正義感があっても、愛やいつくしみが全然ありませんでした。律法を守らない人を厳しく罰することができても、人の弱さを理解することや、人の過ちをゆるし、人を力付け、正しい生活に導くことができませんでした。結果的にパウロは、神のみ旨に従って生きようと思っても、実際には神に逆らって生きていて、神の味方であるつもりであっても、実際には神の敵となっていたのです。

イエスと出会ってからパウロの生活が全く変わりました。確かに、イエスとの出会いは、彼にとって苦しいことでした。なぜなら、その時、自分自身がどれほど自分自身を騙していたか、どれほど現実から離れていたかという事実が分かったからです。それと同時に、パウロにとってイエスとの出会いは大きな希望と喜びの源にもなりました。その時から、パウロはもはや自分の力に頼らず、イエスが現してくださった神の力、特に神の愛といつくしみに頼るようになりました。イエスと繋がって生きるようになったパウロは、他人に対する態度も変え、彼の心が神ご自身の心のように広くなりました。そのような生活によって、彼が本当に神を知っているということ、本当に神の子になったということを表していたのです。

私たちもパウロのように、私たちの心よりも大きな神の愛に力付けられて、自分の現状を知り、神のいつくしみに頼ることによって、神の愛に生きることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、
神の子どもとしてくださいます。
あなたの愛を受けた民を顧み、
御子を信じる人々に、
まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活節第4主日B年 (ヨハ10,11-18)

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」1ヨハ3,1

普段人間が羊を飼うのは、その毛や肉や乳などのため、要するに、自分の利益のためです。羊飼いたちが、羊のために時間をかけて、力を尽くして一生懸命に働くことがあっても、それは最終的に、この利益をより大きくするためなのです。良い羊飼いであると宣言されたイエスは、ご自分のために何の利益も求めないだけではなく、この羊、つまり私たちのために、ご自分の命をささげてもくださるのです。

何の利益も求めず、自分より弱いもののために命を懸ける人がいるかもしれませんが、イエスは私たちのために、誰にもできないようなことをされました。それは受肉です。つまりイエス・キリストにおいて、神ご自身が人間となられたということなのです。確かにそれは、羊飼いが自ら羊になったような、非常に信じがたいことですが、私たちにとって何よりも大切なことなのです。なぜなら、御言葉である神の子が人間になったがゆえに、今私たちが神の子になり、神の命にあずかるようになって、神の家族の一員になれるからです。それこそ、私たちの救いですし、イエス・キリストがご自分の命をささげていいと思われたほど価値のあるものなのです。

この救いは無償の賜物ですが、それを受け入れるために、羊が羊飼いに従うように、私たちはイエスに従わなければなりません。イエスに従うためには、私たちが命を犠牲にする必要性がなくても、今まで大事であると思って力を尽くして手に入れようとしたもの、手に入れてから奪われないように注意を払ってきて結果的にいつも執着しているものを、手放す必要があるでしょう。ですから、イエスを愛している時だけ、つまり、イエスとの繋がりがこの世において最も大切な宝であると確信している時だけ、私たちは救いにあずかることができるわけです。

全能永遠の神よ、よい牧者キリストは、
わたしたちのためにいのちをささげてくださいました。
キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、
聖人とともに喜びを分かつことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

復活節第3主日B年 (ルカ24,35-48)

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」ルカ 24,46-47

私たちが抱いている恐れや怒り、また、妬み、絶望、不正な扱いを受けている感じや無力感などのような感情は、殆どの場合、苦しい体験をして、過去に負わされた傷がもたらすものなのです。このような感情によって、古い傷が私たちを支配しています。そのために、正しいと思うことを実行することができないし、逆に正しくないと思うことをやってしまうことがあるのです。多くの人が過去の苦しい体験を忘れようとしていますが、この体験を忘れることができても、それによって負わされた傷が癒されない限り、私たちは自由に、喜びと平和の内に生きることができないのです。

復活されたイエスは、私たちにご自分の平和を与えながら、この平和を受け入れる方法を教えています。イエスが自分の傷を弟子たちに見せることによって、私たちも自分自身の傷をイエスに見せるように呼びかけています。私たちは、自分の傷を隠すことによってではなく、それを癒すことのできる方に見せることによって、本当の癒しの過程が始まるのです。

神がイエスご自身の苦しみと傷を全ての人の救いに変えてくださったように、私たちの苦しみから神は善を引き出すことができます。私たちの苦しい体験から悪だけではなく、善も生じていることに気が付くならば、私たちは神の働きを確認することができます。この体験によってイエスに対する信頼が深まるし、私たちの癒しが進みます。傷が癒されれば癒されるほど、加害者をゆるすことが当然のことになります。イエスがご自分を十字架に付けた人々をゆるしたように、私たちも心から自分の加害者をゆるすならば、イエスが与えてくださる平和を受け入れることができるのです。

すべてを導かれる神よ、
教会は新しい民を迎えて若返り、
喜びに満たされています。
あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたちが、
感謝のうちに救いの完成を待ち望むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

復活の主日 (ヨハ20,1-9)

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロ3,1-2

使徒たちの中で、ゼベダイの子ヨハネと思われる、「イエスが愛しておられたもう一人」の弟子だけが最後まで、つまり十字架のもとまでイエスに従いました。そのようなことができたのは、他の使徒よりもイエスを強く愛していたからでしょう。苦しめられる恐れや命を失う恐れを乗り越えるために必要な力をもたらした、イエスに対するこの大きな愛のゆえに、ヨハネはキリストの死のために他の使徒よりも深く悲しんだのではないかと思います。

そんなヨハネにとってイエスの復活は、どんな意義をもったのでしょうか。恐らく、それは何か宗教的なことや神学的なことよりも、もう絶対に会うことのできないと思われた一番親しい人、自分の命よりも大切な友との再会が、可能になったということだったのではないかと思います。復活されたイエスと出会ったヨハネはどんなに喜んだことでしょうか。

そして、それよりも素晴らしいことがありました。普段はどんなに深い友情であっても、どんなに美しくて、あらゆる困難を乗り越えることのできるほど強い愛であっても、それには必ず死別による終わりがあります。しかし、復活されたキリストはもう一度死ぬことがありませんので、いつまでもヨハネと共にいることができます。それはもう何も、死さえもイエスと再会したヨハネを、イエスから引き離すことができないということになるわけです。愛する人にとってそれ以上に素晴らしいこと、それ以上に喜ばしいことがあるのでしょうか。

イエスを信じるとは、イエスを愛することであって、イエスと永遠の絆で結ばれることなのです。イエスを信じている人は、ヨハネや数え切れないほど多くのキリスト者と共に、聖パウロの次の言葉を述べることができると思います。すなわち、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8,38-39)と。

これこそ永遠の命であり、最高の幸福と喜びなのです。

全能の神よ、
あなたは、きょう御独り子によって死を打ち砕き、
永遠のいのちの門を開いてくださいました。
主イエスの復活を記念し、
この神秘にあずかるわたしたちを、
あなたの霊によって新たにし、
永遠のいのちに復活させてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

6月4日 聖霊降臨の主日A年 (ヨハ20,19-23)

「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」使2,7-8

バベルの塔の物語(創11,1-9)が教えている通り、人類が神を無視して、自分の力にだけ頼って幸せになろうとしている時、段々と分裂して、互いに誤解したり争ったりして、結果的に皆が不幸になるのです。

聖霊降臨は、バベルの塔の物語が描いている人間の働きと正反対の結果をもたらす出来事です。元々互いに理解していなかった人たちは、聖霊の働きによって、互いに理解するようになり、キリストを中心とする共同体を作り、一緒に力を合わせて神のわざに協力することによって、創造主である神が求めている一致に向かって歩むようになりました。神における人類の一致こそ、神が最初から求めていることであり、すべての人にとって最高の幸福の状態なのです。聖霊降臨の日に生まれた教会は、全人類をこの目的に導く使命を与えられています。

洗礼の時に聖霊を与えられた私たち一人ひとりが、聖霊の導きに忠実に従い、イエス・キリストと同じように神の愛を示すことによって、多くの人々を神のもとに引き寄せることができますように祈りましょう。

すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

5月28日 主の昇天A年 (マタ28,16-20)

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」マタ28,18-20

イエスは、父である神から一切の権能、すなわち神ご自身の権力を与えられたと言われましたが、この権力とは、どのようなものなのでしょうか。

この世において、神の望みに適わないことが沢山起こっていますので、神は残酷な悪に対して無力であるような印象を受けることがあっても、不思議ではないでしょう。けれども、神の支配はそのような印象を与えることがあっても、実際に、父である神がこの世の真の支配者であり、神には創造のわざを最初から求めていた目的に導く力があるのです。

神が無力であるように見えるのは、神の支配の仕方が、私たちが自分の経験から知っている支配の仕方と全く異なっているからです。この世の支配者と違って、神は一人ひとりの人間の自由意志を尊重しておられるがゆえに、神がご自分の意志を実行するために、絶対に暴力を用いることがありません。神が用いる唯一の力というのは、忍耐強くて、誠実な愛なのです。神はこの愛によって人間をご自分のもとに引き寄せ、この愛によって人と、死よりも強い絆を結び、この愛によって人と永遠に一致しておられるのです。

残念ながら、神の愛が無力で、何も役に立たないと思っている人々は、この愛に応えず、神を無視したり、神に逆らったり、神を攻撃したりします。神は、愛しておられる人間のこのような振る舞いによって、傷付けられ苦しみますが、決してこの苦しみに左右されることがありません。人が神に逆らったりすることによって神を苦しめても、神はこの人を愛し続けるし、この人のために善を行い続けます。神はご自分に、より大きな苦しみを与えた人に、より大きな愛を注ぎます。人間の振る舞いしか変えることのできない暴力と違って、神の愛には人間の心を変える力、人間をキリストの姿に変える力があるのです。

さて、イエス・キリストを自分の主として認めている私たちが、イエスの導きに従い、イエスと同じように愛に生きることによって、神ご自身の愛を証しし、神の支配を広めることができますように祈りましょう。

 全能の神よ、
あなたは御ひとり子イエスを、
苦しみと死を通して栄光に高め、
新しい天と地を開いてくださいました。
主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。
キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
ともに永遠のいのちに入らせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。