年間第11主日B年 (マコ4,26-34)

 「イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」マコ4,26-28

旧約聖書の時代に、主なる神はイスラエル人に約束を与えることによって、目指すべき目的を表して彼らを励まし、力付け、この目的に向かって導いてくださったように、イエス・キリストも私たちに約束を与えることによって、私たちを希望と喜びで満たし、力付け、導いてくださるのです。

イエスが私たちに与えてくださった様々な約束の中で、中心的な約束とは、神の国の実現という約束です。イエスは、ご自分の言葉と行いによって神の国の素晴らしさを表してくださいましたが、聖ヨハネは黙示録の中で、神の国を次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21,3-4)。また、聖パウロは神の国について次のように語ります。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてをご自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」(1コリ15,28)。

言うまでもなく愛の完成による神の国の実現は、人間にとって最高の幸福の状態、しかも、永遠に続く状態なのですが、憎しみや無関心、不正や争い、また他の悪や苦しみに満たされている世界、しかもますます悪化している世界の現状を見ると、この世界は本当に神の国に向かっているのかと疑っても不思議ではありません。それよりも、世界は自己破滅の道を歩んでいて、全滅に向かっていることを信じる方が簡単かもしれません。

イエスが教えてくださるように神の国は、世界の歴史の流れの自然な結果ではなく、神の働きの結果なのです。創造主であり全能の方である神は、いつでも、人間が最も相応しくないと思う瞬間にも、神の国を完成することができます。そういう意味で、世界の未来を表しているのは、現在の世界の状況ではなく、イエスの約束の方なのです。

イエスの約束がもたらす希望と喜びに満たされて、神の国を目指して生きることによって、神の国についての良い知らせを、宣べ伝えることができますように祈りましょう。

あなたに望みをおく者の力である神よ、
わたしたちの祈りに耳を傾け、
あなたから離れては
何もできないわたしたちを恵みの力で強めてください。
わたしたちがあなたのことばを守り、
心も行いもみ旨にかなうものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第10主日B年 (マコ3,20-35)

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」マコ3,28-29

この地上は、善と悪の争いの舞台であると言えると思います。また、この争いは、霊的な善と霊的な悪の争いの現れであるとさえ言えるかもしれません。各々の戦いにおいて悪が勝ったり、善が勝ったりすることがありますが、最終的な勝利者はすでに決まっています。この勝利者とは、人格的な善そのものであり、堕落して悪霊となった天使を含めて、存在しているすべてのものの創造主である、神なのです。

イエス・キリストは、人格的な悪である悪霊に取りつかれていた人を、一言だけで解放する力を持っていました。イエスに対して敵意を持っていた人たちでさえ、イエスがベルゼブルの力や悪霊の頭の力を以て悪霊を追い出していると訴えることによって、イエスが悪霊を追い出す力を持っておられたという事実を認めていました。イエスは、このようなご自分の働きを説明して、次のように語ります。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11,20)。要するに、ご自分が神ご自身の力、言い換えれば、聖霊の力を以て、悪霊を追い出しているということと、この働きは神の国の到来、つまり神ご自身の最終的な勝利を表すしるしであるということです。

人間は自由意志を持っていますので、善を行うことも、悪を行うことも選ぶことができます。そのような選択によって人間は、そんなつもりがなくても、実際に自分の仲間を選んでいるのです。人間は、殆どの場合、自分の無知のゆえに騙されて、悪を行うことによって自分の心を悪霊に対して開き、だんだんと悪霊の支配下に入り、悪霊の虜になっていくのです。

幸いに神は、誰一人と言えども諦めたりしませんので、人が回心して、神のもとに戻るよう常に働いてくださいます。ですから、悪霊の虜となったこの人が自分の過ちに気が付いて、神のゆるしを求めるならば、必ず神に受け入れられるということを、イエス・キリストが約束してくださったわけです。

けれども、人の罪や過ちを示してくださる聖霊の働きに応じることなく、頑なな心を持って、自分の罪や過ちの結果である現状に留まるならば、この人の罪がゆるされることはなく、命と愛、またその他のすべての良いものの源である神から、永遠に離れることになるということも、イエスが教え警告してくださっているのです。

 

年間第6火曜日 (マコ8,14-21)

「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。』」マコ8,17-18

イエスが5千人を五つのパンで、また、4千人を七つのパンで満たされたことを体験しても、自分たちのために一つのパンしか持っていないことを心配した弟子たちは、ファリサイ派の人々と同じように、自分の経験から何も学んでいないことを表したのです。

イエスが遣わしてくださった聖霊を受けて初めて、過去の経験を理解してイエスのことを信じ、与えられた使命を果たした弟子たちと同じように、聖霊の光に照らされて、日常の出来事の中でキリストの働きと導きを見出して、イエスをますます強く信頼して、一層忠実に従うことができますように祈りましょう。

年間第6主日B年 (マコ1,40-45)

 

「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」マコ1,40-42

律法は重い皮膚病を患っている人が、健康な人に近づくのを禁じていました。健康な人も、この病気を患っている人に触れることや、近づくことさえも禁じられていました。万一、誰かがこの人に触れたら、この人と同じように汚れたものになって、この人と同じように扱われるようになったのです。

イエスに近づいた病人だけではなく、この人に触れたイエス御自身も、律法を破りました。けれども、結果的にイエスが汚れたものになる代わりに、重い皮膚病を患っていた人が清められたのです。けれども、病人が本当に癒されたとしても、祭司の証明書がなければ、誰もこの人が治ったということを認めることができなかったし、この人も普通の生活に戻ることもできませんでした。祭司の証明書がない限り、イエスも町に入ることができなくなっていたのです。

癒された人がイエスの言いつけを無視したために、町に入ろうとしたイエスの計画を妨げてしまいました。けれども、イエスが自分の計画を実現することができなくなっても、イエスの周りに集まる人は少なくなるのではなく、不思議なことに増えていったのです。

この物語は、神の働き方と力を現しています。まず、神は人が作った制限を超えて、そこから人を救い出してくださるということです。それから、人間の不従順は、神の救いの働きを止めることができないし、神は反対されればされるほど力強く働いて、元の計画よりも一層立派なことを成し遂げてくださるということなのです。

人々はイエスを十字架に付けることによって、その救いの働きを完全に破壊しようとしましたが、神はイエス・キリストの十字架上の死によって、ご自分の無条件の愛を啓示し、罪の結果である死を滅ぼしてくださったのです。イエスの死は、人間の計らいどおりのような、神の救いの計画の破壊ではなく、神の計画のより素晴らしい実現になったのです。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第5主日B年 (マコ1,29-39)

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」マコ1,36-38

もし、イエスが頼まれた時に必ず病気の人を癒してくださったならば、どんなことになったのでしょうか。恐らく聖マルコが描いているように、数え切れないほどの人々、もしかしたらほとんどすべての人々がイエスのもとに来たのではないかと思います。けれども、同じ福音書が伝えている通り、イエスが人の願いに応じない時もあり、すべての人の病気を治すわけではありませんでした。そのため、病気を治してもらいたい人々の中には、イエスにがっかりする人があっても不思議ではなかったと思います。

どうしてイエスはすべての人の病気を癒すわけではないのでしょうか。どうしてイエスは、ご自分にがっかりする気持ちを持つことを人に許しているのでしょうか。

確かに、ペトロの姑のように、癒しの恵みを体験することによって、感謝の念を抱き、愛を実行して人に奉仕するようになる人、つまり体の癒しだけではなく心の癒しも受け入れる人もいますが、ほとんどの人は、感謝もしなければ、自分の生き方を変えることもありませんし、勝手に自分の都合のためにイエスを利用しようとしているだけです。

イエスが求めておられるのは、すべての人が完全に幸せに生きることです。そのためには、体だけではなく心も魂も癒したいと望んでおられるのです。最終的には、父である神と一体になることが私たちの完全な癒しになるのです。そのためにイエスは、私たち一人ひとりに合わせて、父である神のもとに導こうとしています。大事なのはイエスを信頼して、自分の期待に合わない言葉や行いにおいても、その導きを見いだしてイエスに従うことなのです。

信じる者の力である神よ、
尽きることのないいつくしみのうちに
わたしたちを守ってください。
あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、
いつもあなたの力によって強められますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

 

1月28日 年間第4主日B年 (マコ1,21-28)

「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」マコ1,27-28

イエスは、他の人よりも大きな力を示したので、彼の評判が早く広まって、大勢の人々がイエスのもとに集い、イエスに従うようになりました。けれども、イエスが逮捕された後に、ほとんど皆がイエスから離れてしまいました。イエスを逮捕した人たちの方が、イエスより大きな力を持っていると思うようになった人たちは、イエスを迫害していた権力者の味方になって、権力者らが望んだ通りにイエスの死刑を請求したのです。

この人たちは、イエスから自分の利益になると思うようなものしか求めませんでしたので、イエスと出会っても、イエスの行いや言葉の意味をまったく理解せず、イエスの真の素晴らしさを見出すことができませんでした。結果的に、イエスに対して心を開かずに、イエスが彼らに一番与えたかった賜物、一番価値のあるもの、すなわち、神の愛と神の命を受け入れることができなかったのです。

けれども、イエスが権力者たちに負けたように見えても、十字架に付けられて何もできないようになっても、そのイエスのもとに最後までとどまった人もいました。彼らはイエスを愛していましたので、彼らがイエスに従ったのは、何らかの報いを手にするためではなく、イエスと共にいるため、また、イエスに奉仕するためでした。彼らは愛の目で見たので、イエスの力強い行いにおいても、イエスの受難や十字架の死においても、無限の愛を、あらゆる悪と死よりも強い愛を、見出すことができましたし、この愛を受け入れることができたのです。

イエスに従っている私たちは、絶えず自分の動機を調べ、必要に応じてこの動機を正すようにしなければなりません。なぜなら、愛のためにイエスに従う人だけが、どれほど大きな力によっても消し去ることのできない絆でイエスと結ばれ、永遠の命にあずかり、この地上においても死を超えてもなお、本当に豊かに生きることができるからです。

1月21日 年間第3主日B年 (マコ1,14-20)

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ1,14-15

神は創造してくださった世界を人間の支配にゆだねました(創1,28参照)。支配の本来の意味とは、漢字が示唆している通り「支えると配る」、つまり、自分の支配下にあるものを自分の利益のために利用するということではなく、支配下にあるものの善のために力を尽くして奉仕するということなのです。神が人間に求めておられる世界の支配とは、人間が創造主と協力しながら、この世界を完成へと導くということです。世界を人間の支配にゆだねるというのは、創造のわざにあずかるように人間を招くということです。
残念ながら、人間は神の望みに逆らって、ゆだねられた被造物を自分の欲望を満たすために利用するようになりました。結果的に、人間は神との親しい交わりと自由をはじめ、いろいろな素晴らしい賜物を失い、世界は悪化して、いろいろな不正や病気や災い、また、死がこの世に入り込んだのです。世界は、神が求められているような所というよりも、悪霊が求めているような所になり、神が支配されるのではなく、悪霊が支配している所になったということさえ言えると思います。
イエス・キリストはこのような世界に生まれてきて、その現実をよく知っていましたが、「神の国が近づいた」と宣言します。確かに、神は人間に創造のわざにあずかることを求めていますが、この世界の完成、つまり、神の国の実現は、人間の協力に頼らずとも、神ご自身の果たし得るわざなのです。人間が神の招きを無視しているがゆえに、世界が間違った方向に向かっても、神の国は遠ざかっているのではなく、それに近づいているという宣言が福音、良いお知らせなのです。
いつか必ず到来する神の国に入るために、私たちは悔い改める必要があります。それはイエスに従うことによって、自分の考え方や価値観や生き方を、イエスが教えてくださった考え方や価値観や生き方に変えるということなのです。

全能永遠の、神である父よ、
わたしたちの行いがいつも
み旨にかなうよう導いてください。
御子キリストのうちにあって
豊かな実を結ぶことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

1月14日 年間第2主日B年 (ヨハ1,35-42)

「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」ヨハ1,35-37

神の指示に従って、ユダヤ人たちは神に小羊や他の動物をいけにえとしてささげることによって神を礼拝したり、いただいた恵みに感謝したり、新たな祝福や犯した罪のゆるしを願ったりしました。これは、そのとき神のことを殆ど知らなかった人たちが神と関わる方法、人間が神に近づくためのその心の状態や理解力に合わせて神が与えられた方法でした。

残念ながら、時が立つにつれて、この儀式は人の心の状態と何の関係もない形式的なものになりました。そのために、人々はそれを行うことによって神に近づく代わりに、神から遠ざかっていったのです。

洗礼者ヨハネは、イエスを見て、彼が「神の小羊」であると宣言しました。「神の小羊」というのは、神が人類に与える捧げ物であるという意味だったのでしょう。要するに、イエスこそ、神が人類に近づく、人々と交わる新しい方法であるということです。

残念ながら、人々はこの賜物を喜んで受け入れる代わりに、神の望みに逆らって、イエスを十字架につけ、殺してしまったのです。もし、人類の歴史がその瞬間で終わったならば、神に近づく希望が完全になくなったし、人類は永遠に神から離れた状態に留まり、つまり、永遠の死に定められたことになったに違いありません。

幸いにイエスは、ご自分を十字架につけた人々のためにゆるしを願ってから、ご自分の命を神にささげました。それによって、イエスは人間が犯したこの最も大きな罪を完全な奉献に変えてくださったのです。この奉献のおかげで、人間が神との親しい交わりに生きることが可能になったと同時に、神の命にあずかることによって、神の子どもになることも可能になったのです。

神の小羊であるイエスのいけにえの実りにあずかるために、今私たちは、イエスの最初の弟子と同じようにただイエスに近づき、イエスと絆を結び、親しい交わりのうちに生きるだけで十分なのです。

天地万物を治められる神よ、
あなたの民の祈りをいつくしみをもって聞き入れ、
世界に平和への道を示してください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

11月19日 年間第33主日A年 (マタ25,14-30)

「1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」マタ25,18

「タラントンのたとえ」の中に登場する一人の人が、主人から与えられた使命を果たすことができなかったのは、妬みのせいだったのではないかと思います。確かに、5タラントンや2タラントンを預かった人と比較すれば、この人はたったの1タラントンしか預からなかったと言えますが、1タラントンというのは20年間の収入に当たる非常に大きな金額でした。この人のように他人を妬む人は、持っているものを喜び、それを正しく用いる代わりに、他人が持っているものだけを気にして、自分が持っているものを正しく評価できないために、それを無駄にしてしまったとしても、決して珍しいことではないでしょう。

1タラントンを預かった人が何もしなかったもう一つの理由として考えられるのは、競争心です。1タラントンを持つ人よりも、5タラントンや2タラントンを持つ人の方が有利な立場にありますので、彼らより沢山もうけることは、完全に不可能ではないとしても、非常に難しいことでした。他人に勝たなければならないとか、他人よりもよくできなければならないというような動機だけで動いている人は、成功する可能性が全くないか、非常に低いときに、やる気がなくなって、そのまま何もしないでいるならば、誰かに負けることよりも、大きな損をしてしまうのです。

コルカタの聖テレジア(マザー・テレサ)が言ったように、神が人間に求めておられるのは、成功することではなく誠実をつくすことなのです。大事なのは、人が他人によって評価されている仕事をしているかどうかではなく、やっていることによってどんな人になっているかということなのです。神が私たちの力に応じて、様々な使命を与えてくださっているのは、私たちがこの使命を忠実に果たすことによって、キリストとの愛と信頼の絆を強めるためなのです。なぜなら、私たちは、キリストとの交わりのうちに生ることによってキリストのようになるときだけ、神ご自身という最高の賜物を受け入れることができるからです。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

11月12日 年間第32主日A年 (マタ25,1-13)

「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタ25,13

イエス・キリストは、世の終わりに再臨されると約束してくださいました。その時、神の国が完成されるし、誰一人イエスの権威を否定することができなくなります。キリスト者として生きることの一つの意味というのは、キリストの再臨の時に完成される神の国に受け入れられて、キリストと共に、またキリストによって、神ご自身と救われたすべての人々と共に、永遠に生きるために準備することなのです。

世の終わりに来られるイエス・キリストは、凡そ2000年前に復活し、今も生きていて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28,20)と約束してくださった方と同じ方なのです。確かに、私たちには、今イエス・キリストの姿が見えないし、声も聞こえませんが、いつも一緒にいてくださるイエスを信仰によって知ることができますし、愛することによってイエスと結ばれて、イエスと共に生きることができるのです。

神の子であり、世の唯一の救い主であるイエス・キリストと共に生きることは、一番賢い生き方であり、最も確かな希望と最も大きな喜びと平和で満たされた生き方として、この世において可能な生き方の中で最も幸せな生き方なのです。

私たちは、イエス・キリストと共に生きることによって、多くの人々にイエスが下さる信仰、希望と愛を伝え、イエスの再臨のために準備をすることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。