年間第33主日B年 (マコ13,24-32)

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」マコ13,31

典礼暦の終りが近づくと、私たちはいつも同じ事実を思い起こさせられます。それは何かというと、私たちが今生きているこの世界は、いつまでもそのまま続くものではないということなのです。言い換えれば、何時か必ずこの世の終わりが来るということなのです。世界の終末があまりにも抽象的な発想であると感じるならば、この世のことの代わりに自分の人生のことを考えてもいいと思います。

この世がいつか終わるという事実、また、この世における自分の人生も必ず終わるという事実は、当然と言えば当然ですが、なぜか多くの人がそれを忘れがちです。もしかしたら、それは多くの人がこの世、またはこの世の人生にのみ希望をおいて生きていますから、この世の終わり、または、自分の人生の終わりを意識すると、自分の希望には何も根拠がないということや自分の無力、自分の努力の空しさがはっきりと見えて、非常に恐ろしくなるからではないかと思います。

けれども、この世ではなく、キリストに希望をおく人にとって、世の終わりを思い出すことは、恐ろしいことではなく、逆に喜びをもたらすものなのです。なぜなら、世の終わりは、キリストの再臨、また、キリストのすべての言葉(約束)の実現、つまり創造のわざの完成を意味するからです。

世の終わり、または、この世の人生の終わりについて考える時に、どんな感情が浮かびますか。あなたの希望は、キリストであるのでしょうか、それとも何か別のものなのでしょうか。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第32主日B年 (マコ12,38-44)

「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。』」マコ12,38-40

歴史において非常に多くの場合、いろいろな悪事を働いた人、例えば権力や富を得るために他人の名誉や評判を汚したり、争いの相手を殺したり、他人のものを奪い取ったりした人は、大勢の人々によって偉大な人物として考えられて、人々がその人に従ったことがあったでしょう。このような世間において偉くなりたい人、少なくとも偉い者として認められたい人は、イエスの時代の律法学者と同じように、偉そうな格好をしたり、他人の背中を踏んで少しでも高い社会的な地位を得ようとしたり、詐欺を働いて富を増やしたり、ありとあらゆる手段、多くの場合は不正な手段を用いて、より大きな権力を手に入れようとしたりしています。

そのような人がいても仕方がないかもしれませんが、特に寂しいことというのは、そのような人に逆らう人よりも、この人の狙い通りに動く人が沢山いるということなのです。もしかして、この人たちは、無慈悲で冷酷な人の敵になるよりも、その味方や協力者になった方が自分の益になると思うのかもしれませんが、その思いの反して、結果的に意外に大きな被害を受けても自分自身を失っても、驚くべきことではないでしょう。

人の心を見て、何よりも、善意、誠実、愛と正義を評価しておられるイエスに従おうと思うならば、この世において平等の仲間として認められず、相手にされないだけではなく、軽蔑されることもあるかも知れないという覚悟を持つ必要があると思います。そのために、やはりこの世の権威や名誉、また、この世が与える特権や富などよりも、キリスト自身との絆を大事にし、キリストの愛を一番優れた宝として認める必要があると思います。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第31主日B年  (マコ12,28b-34)

 「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」マコ12,29-31

人間は愛に生きるために創造されましたので、愛に生きている時だけ幸せです。けれども、同時に人間は非常に弱い存在であって、恐れや欲望などによって束縛されていますので、いくら努力しても愛に生きることができませんし、誰かに愛されても、この愛を滅ぼしてしまうことも珍しくありません。幸いにも、愛は人間の努力の結果ではなく、人間を創造してくださった神、愛そのものである神が与えてくださる賜物なのです。しかも、愛は神が全ての人に与えたいと望んでおられる賜物なのです。

神は人間に掟を与えることによって、ご自分のもとへの道、つまり愛の源への道を示してくださいました。残念ながら、イスラエルの歴史、また、私たちの個人的な歴史が示している通りに、人間は正しい道、つまり、自分の最高の幸福である愛への道を知らされても、またこの道を歩み出しても、なかなか最後まで辿って行くことができません。

しかし神は、愛への道を知らせるに止まったのではなく、ご自分の御ひとり子をこの世にお遣わしにもなりました。神の御ひとり子であるイエス・キリストは、愛に根差したご自分の生き方によって、またご自分の受難、十字架上の死と復活によって、愛に生きることの素晴らしさ、神ご自身の愛の偉大さと力強さを現して、人々をご自分のもとへと同時に、愛の源である神のもとへと引き寄せながら、愛の源への道を歩むために必要な力を与えてくださるのです。

ますます多くの人々がイエス・キリストを知り、信仰と信頼によってイエスと結ばれ、いろいろな束縛から解放されて、心の中で求めている完全な愛に向かって生きることができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第30主日B年 (マコ10,46-52)

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。』」マコ10,48

私たちがイエス・キリストを信じるというのは、盲人のバルティマイのように「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、イエスを信頼して、イエスに私たちの暗闇を照らしていただくように、つまり歩むべき道を教えていただくように、願うということなのです。そして、バルティマイのように、今も私たちはいろいろな形で、例えばキリストの教えに逆らう消費主義や快楽主義の価値観や、それに基づく生き方を押しつけられることによって、「黙らせよう」とされています。つまりイエスに近づかないように、イエスが示してくださった道を歩まないようにされているのではないかと思います。

一生懸命に働いている消費主義や快楽主義の宣教師たちは、自分たちが何をしているか分からなくても、イエスに照らされている私たちは、彼らに騙されないように、イエスが示してくださった道を眺めるだけではなく、実際にこの道を歩むことによって、この道は本当に真の命に繋がっているということを、ますます強く自覚する必要があります。

以上の意味で、イエスを信じるというのは大きな恵みであって、幸せに生きるための大きなチャンスであると同時に、大きな責任を負うことでもあるのです。この恵みを無駄にせず、このチャンスを生かすように、やはり日常生活においてイエスの道を歩む必要があります。そのとき、自分たちが豊かな命に生きるようになるだけではなく、まだ暗闇に留まっているため、いろいろな偽預言者に騙されて死に向かって歩む人たちのために光となることによって、私たちは彼らに対する責任をも果たします。それによって、その人たちにも命に向かう道を見出すチャンスが与えられるわけです。

恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第29主日B年 (マコ10,35-45)

「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」ヘブ4,16

人間は何かの素晴らしい体験をして喜びで満たされたら、自然にこの体験を他の人に知らせたい、なるべく多くの人がこの喜びにあずかって欲しいと望むでしょう。そして、この望み通りに自分の喜びを他の人と分かち合うならば、この喜びが弱くなるどころか、ますます大きくなるのではないでしょうか。

キリスト者である私たちは、福音を宣べ伝える使命を与えられていますが、キリストとの出会いが私たちに大きな喜びをもたらし、福音が文字通りに喜ばしい知らせになるならば、私たちは何も言われなくても、自発的にその喜びを広めたいと望むようになります。この望みに従えば、与えられた使命を無理せずに果たすことができるのです。

私のキリストとの出会いから、もう30年以上経ちましたが、その時の喜びはまだ消えていませんし、今でも、私の大きな原動力になっています。その時、一番嬉しかったのは、イエスがただの福音書の主人公ではなく、本当に生きておられる現実的な方であるとの事実を発見したということでした。この体験によって、イエスは実際にいらっしゃると実感しただけではなく、イエスは私を愛し、値打ちがない私に対しても愛を求めておられるということ、またご自分に従ってほしいと、無力な私の協力を求めておられるということを、言葉で言われたよりも、はっきりと理解しました。心臓が破れそうになったほど大きな驚きと喜び、深い平安で満たされたこのイエスとの出会いが、いつまでも続くことを望んでいました。結果として、イエスの素晴らしさ、イエスの愛、イエスが下さる平和と喜びを、なるべく多くの人に知っていただきたいと思うようになり、宣教師になったわけです。

キリストとの出会いに伴ったあなた自身の喜びは、どんなものだったのでしょうか。今はどうなっていますか。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第28主日B年 (マコ10,17-30)

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」マコ10,17

宇宙万物を創造してくださった神は、すべての人の救いを求めておられます。つまり、神はすべての人々に永遠の命を与えたいと望んでおられます。ですから、永遠の命を受け継いで、最高に幸せになることこそが、私たちの存在の目的であり、その意義であると言えるのです。従って、永遠の命や幸福を追求することは、人間にとって本能的なものであり、一番大切なことなのです。

けれども、人間は永遠の命や幸福を求めても、具体的に何を求めているかということが分かっていません。そのために、一人ひとりは自分の経験や他の人の言葉に基づいて、幸せになるためにどうしても必要だと思うようになったものを、探し求めています。けれども、私たちは自分の経験を正しく理解して、正しい結論を出すとも限りません。また、悪意がなくても、私たちと同じように限界があり、間違った考え方を持つ人がいたり、自分の利益を求めて意識的に私たちを騙す人もいますので、他の人の言葉は必ずしも真実であるとは言えないでしょう。そのために、自分が考えたことや言われたことに従って、間違った方向に向かうことになり得るし、それをそのまま受け入れるのは賢くないでしょう。

幸いに、私たちのために最高の幸福を求めておられる神は、私たちをそのような暗闇に残すことなく、永遠の命や永遠の命への道を知っている方、また、この道を歩むために必要な力を与えることのできる方を、私たちのところに送ってくださいました。この方とは、言うまでもなく、イエス・キリストなのです。イエス・キリストは、私たちを永遠の命へと導くために、神ご自身がお遣わしになった唯一の方ですので、永遠の命についてイエスに教えていただき、イエス・キリストが示してくださる道を歩むより外に、賢い生き方があるのでしょうか。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第27主日B年 (マコ10,2-16)

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」マコ10,9

十数年前に台湾にいた時に、昔の中国では、「三位一体」のことを「三私一愛」というように書いたという話を聞きました。この表現は非常に気に入りました。なぜかと言うとこの表現は、三位一体の神の神秘の一番重要なところを表していると思ったからです。御父と御子と聖霊という三位(三つのペルソナ)は、互いに完全に愛しておられる、つまり互いに与え合い、互いに受け入れ合うために完全に一つの愛として、一体となっているわけです。

三位一体の神秘は、私たちに愛について大事なことを教えています。つまり、愛は二つ以上のものたちが一体になるほど、強くて堅い絆であるということなのです。神にかたどって、神の似姿として創造された私たちは、三位一体の愛の交わりにあずかるように招かれています。実は、この招きというのは、愛によって神と一つになるための招待なのです。これは不思議なことでありながら、これこそ良いお知らせ、福音なのです。漢字で遊んでみるならば、イエスが宣べ伝えた神の国のことを、「唯一神無数人一愛」(唯一の神が、無数の人々と、一つの愛として一体になる)というように表すことができるのではないかと思います。

イエスが結婚の誓約、つまり、愛の誓約によって一体となった夫婦の一致を、誰よりも大切にしているのは、この一致は地上の問題、つまり、ただ一時的なことではなく、永遠に繋がるものであるからです。言い換えれば、いろいろな問題や困難を乗り越えながら、力を合わせて完全な一致を目指す夫婦の生活は、最終的に神との一致への一番普遍的で、神ご自身が定めた道であるからです。私たちを唯一の神との一致に導くために人間になり、酷い受難を受け、ご自分の命をささげてくださったイエスが、神との一致への道から誰にも逸れて欲しくないと思っておられるというのは、不思議ではないでしょう。

全能永遠の神よ、
あなたの恵みは限りなく、
人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。
わたしたちを罪の重荷から解放し、
まことの自由に導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第26主日B年 (マコ9,38-43.45.47-48)

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ヨハ17,17

イエスは大勢の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出しましたが、イエスが神によって遣わされたことを信じなかった人も、イエスを妬んで殺そうと図っていた指導者さえも、イエスには超自然な力があることを否定することができず、それを非常に大きくて確実なものとして認識していました。不思議なことに、イエスが救い主であると信じなくても、その力だけを認め、イエスの名を使って、イエスと同じように奇跡を行い、同じように悪霊を追い出す人もいたようです。けれどもこの人たちは、「イエスの名によって」ではなく、あくまでも「イエスの名を使って」そうしたのです。

「イエスの名を使って」何かをするのと、「イエスの名によって」何かをするのとは、何が違うのでしょうか。「イエスの名を使って」働く人たちは、イエスとの個人的な関わりを持たずに、イエスの意向や望みを考えずに、ただイエスの力や権威を用いて、自分自身が良いと思ったようなこととか、利益になるだろうと思ったようなことをします。けれども、「イエスの名によって」何かをするというのは、信仰や愛によってイエスと結ばれ、心を一つにして、イエスの望みに従うことなのです。ですから、後者だけをキリストの弟子と呼ぶことができるわけです。

「イエスの名を使って」働く人は、いろいろな良いことをしても、イエスと関係のない生活を送っていますが、「イエスの名によって」働き、生きる人は、段々とイエスとの関係を深め、イエス自身の姿に変えられていきます。そのために、この人はますます力強くキリストの愛を示して、多くの人をキリストのもとに導きます。あなた自身は、どちらだと思いますか。「イエスの名を使って」働く人でしょうか。それとも「イエスの名によって」働く人なのでしょうか。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第25主日B年 (マコ9,30-37)

「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」ヤコ4,3

文化や宗教を問わず、正しいことさえすれば、いろいろな苦しみを避けることができるとか、自分の望みが満たされると思う人が大勢いるようです。けれども、一生懸命に正しく生きても、いろいろな問題や困難が生じるし、人生がなかなか望み通りに行かないことの方が多いのではないでしょうか。さらに、多くの場合に、不正を行う人たちは何の心配もなく、人生を精一杯楽しんでいるのを見て、混乱して絶望に陥る人がいるかも知れません。また、正義や他人の気持ちなど気にせずに、自分のことのみ考えた方が賢い生き方だというような結論を出して、不正な人々と同じように、自分の欲望に従って生きるようになる人もいると思います。

神の望みに全く忠実に生きたイエスは、生まれてからいろいろな困難に遭ったし、誤解、迫害、暴力や裏切りなどのような苦しみも体験しました。最後に不正な裁判を受け、犯罪人扱いされて、十字架上で不名誉な死を迎えたのです。このイエスは神に見捨てられたのでしょうか。それとも、イエスが頼りにしていた神は無力な方であったのでしょうか。決してそうではありません。

イエスが神の望みに従って生きたのは、苦しみを避けて、気楽に生きるためでもなければ、また、自分の名誉のためでもありませんでした。それは、すべての人々の救いのため、要するに私たちの最高の善のためでした。そして、それほど苦しんでも、失望したわけではありません。キリストが求めた通りに、全能の神はその苦しみと死を含めて、キリストの人生全体を私たちの救いにしてくださったのです。

私たちは、たとえ正しく生きても、苦しみを避けることができないことを覚悟しながら、キリストのように神の導きに従って生きるならば、神が必ずこの苦しみを含めた私たちの人生を、私たちの善のためにだけではなく、私たちが愛している人々を始め他の多くの人々の善のためにも、用いてくださると確信を持つことができます。

この希望がますます強められますように祈りましょう。 
ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
あなたは愛のおきてによって、
すべてを完成に導いてくださいます。
わたしたちが互いに愛し合うことによって、
人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第24主日B年 (マコ8,27-35)

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」マコ8,35-36

イエス・キリストを知ることは、イエスについて何らかの情報を持つことではなく、愛と信仰によってイエスと結ばれることなのです。私たちは、この意味でイエスを知るならば、父である神を知るようになる、つまり、父である神と繋がって、神の愛と命に参与するようになりますし、キリストと同じ姿に変えられ、神の心に適う神の子になるのです。これこそ永遠の命、永遠に続く人間の最高の幸福の状態なのです。

以上の意味でイエスを知るために、一回きりの決断やちょっとした努力だけでは足りません。イエスを本当に知るようになること、最終的にイエスと一体になることは、一生かかる過程の結果なのです。この過程は、ペトロの人生において見られます。

ペトロは、イエスに従うことによって、割合と簡単に自分の外面的な生き方を変えたのですが、内面的に変わるためには、何年も必要でした。ペトロは、イエスに従い続ける中で、イエスのことを、またイエスの教えをより深く理解することによっても、失敗したり、過ちを犯したりすることによっても、少しずつ、イエスについての自分の考え方、また、イエスに対して持っていた期待が変わりましたし、自分についての考え方や物事の理解の仕方も変わり、神との関係だけではなく、自分自身や他の人々との関係、また、いろいろな物事との関係も全く変わったのです。結果的にペトロは、イエスに従うことによって、古い人生を完全に失い、新しい人生を与えられたと言えるわけです。

私たちも、ペトロと同じように、イエス・キリストを信頼して、開かれた心を持ってイエスに従い、間違った考え方や間違った生き方を手放し、創造主である神の心に適う考え方と生き方を身に付けることによって、人間として、また、神の子として完成されますように祈りましょう。

天地万物を造り、治められる全能の神よ、
あなたの民を顧みてください。
わたしたちが救いの力を知り、
心を尽くしてあなたに仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。