年間第8主日C年 (ルカ6,39-45)

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」ルカ6,45

誰しも、ゆるしの秘跡を受ける際に、または、他の機会に、自分の生き方を正す決心、つまり、悪い行いを止めて、良いことをする決心をしたことがあるのではないかと思います。そうだったならば、この決心を実現して、自分の生き方を本当に正すことができたでしょうか。おそらく、しばらくの間は、前よりも正しく生きることができたとしても、結果的に前の生き方、前の過ちや罪や怠りに、戻ってしまったのではないでしょうか。

イエス・キリストが教えてくださる通りに、本当の問題、つまり正しくない生き方の真の原因は、人間の心の中にあるのです。それは多くの場合、私たちが意識していない欲望、他の人や自分自身や神に対する非現実的な期待、また、根拠のない期待、間違った価値観やいろいろな執着、過去に負わされた心の傷などです。私たちが、自分の生き方を正すように強く決心して、全力を尽くしてこの決心を実行しようとしても、心の中にある原因自体が残っている限り、私たちの努力は空しくて、残念ながら失敗することに決まっているのです。

自分の生き方を正すために、罪やいろいろな過ちを犯さないように注意すること、努力することが大事ですが、同時に自分の心を知るように努力することも不可欠なのです。そのために、過ちであったとか、罪であったと思う行動を通して、自分が何を得ようとしていたのか、この行動の動機や原動力は何であったか、自分が何の感情に動かされたか、この感情は、何の期待や欲望を現しているかというような質問に対する答えを、自分の中で探究する必要があります。このようにして、自分の罪や過ちの原因を見つけたら、ただちにそれを意識的に手放すように努力する必要があるのです。

また、自分の「心の倉」から悪いものを捨てるだけではなく、「心の倉」に良いものを入れる必要もあります。最終的に正しい生き方とは、自分の努力の結果というよりも、神の働きの結果ですので、祈りをすることや神の言葉に耳を傾けること、また、自分にできることは何でも積極的にすることによって、何よりも神の働きに心を開くようにする必要があるのです。

万物を治められる神よ、
世界の歩みを力強く導いてください。
現代に生きる教会が人々に仕え、
平和のために尽くすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第6主日C年 (ルカ6,17.20-26)

「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」1コリ15,19

キリスト者であるならば、私たちの創造主であり父である神が、真の幸福、しかも永遠に続く幸福の唯一の源であるということと、神はこの幸福をすべての人に、恵みとして与えてくださるということを知っているはずです。また、幸せに生きるために何よりも必要なのは、神の子であるイエスを通して神をますます深く知ることによって、ますます強く神に信頼し、心を開いてこの恵みを受けることであるという事実を信じるはずです。けれども、本当に信じるとは、何らかの事実を認めることだけではなく、それに従って生きることでもあるのです。そのためには、自分が本当に信じているかどうかということを知るべく、自分の生き方を見つめる必要があるのです。

何を得るために、あなたは一番一生懸命に努力し、一番沢山の時間をかけていますか。それは、キリストにもっと忠実に生きること、神をもっと知ること、神にもっと近づくことでしょうか。それともそれは、キリストを知らない人たちが幸せに生きるために、どうしても必要だと思っているようなことなのでしょうか。

もし、私たちがイエスを信じても、イエスの教えと異なる教えに従っているならば、また、永遠の命を信じても、自分の人生は死ぬときに終ってしまうかのように、この世のものだけを求めているならば、私たちこそ不幸であり、誰よりも惨めなのです。けれども、頂いた信仰の恵みに忠実に生き、誰よりもイエスに信頼し、イエスの導きに従って生きるならば、私たちこそ幸いであり、完全な幸福に向かって歩んでいるとの確信を持つことができるのです。

ですから、私たちは貧しさの中にも豊かさの中にも、喜びの時も苦しみの時も、神に信頼し、幸福の唯一の源である神の祝福の内に生きることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、恵みに支えられて
豊かな実りをもたらすことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第5主日C年 (ルカ5,1-11)

「シモンは、『先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」ルカ5,5

シモンがイエスに言われて漁に出かけたのは、魚がとれると思ったというよりも、イエスに対する尊敬を示すためだったと思います。しかし、魚がとれるはずのないその時に、意外にも沢山の魚がかかり、どんな時よリも沢山とれたのです。
それはシモンにとって大きなショックだったでしょう。突然、大きな贈り物、しかも自分が望んでいても得られないような、全然期待していなかった賜物を与えられました。シモンはイエスにこの望みを表したわけではないし、頼んだわけでもありません。イエス自らが、シモンの望みを見定めて、それをかなえてくださったのです。
シモンの目は、この賜物に留まったのではなく、この賜物の大きさを通して、それを与えてくださった方の愛の偉大さを見出したのです。その時、恐ろしくなりました。なぜなら、シモンは、自分が罪深くて弱い者で、この愛に全く相応しくない人間であることを意識していたし、この偉大な愛に応えることができないと思っていたからです。
イエスは彼に安心するように言って、ご自分がおん父から与えられた使命にシモンも参加するように招きました。シモンは喜んでこの招きを受け入れました。なぜかというと、この招きを受け入れるのは、自分が体験したこの偉大な愛を受け入れること、この愛に応えることになると分かったからです。
私たち一人ひとりを愛してくださり、私たちの幸福を求めておられる神は、私たちにも多くの恵み、多くの賜物を与えてくださいます。それは私たちがこれらの恵みや賜物によって幸せになるからではなく、私たちがいつかシモンと同じように、それを通して神の愛を見出し、シモンと同じようにこの愛を受け入れることを求めておられるからです。最終的に、神の愛だけが私たちの心を完全に満たし、愛である神ご自身だけが私たちを完全に幸福にすることができるのです。

信じる者の力である神よ、
尽きることのないいつくしみのうちに
わたしたちを守ってください。
あなたの恵みを唯一の希望とするこの家族が、
いつもあなたの力によって強められますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第4主日C年 (ルカ4,21-30)

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」ルカ4,28-29

イエスが神の恵み、自由や解放について一般的に話した時に、ナザレの人たちは、その言葉を喜んで聞き、イエスをほめましたが、イエスが彼らの具体的な問題に触れた瞬間、彼らの気持ちが変わって、イエスを殺してしまおうとしたほどにまで怒りました。このような、イエスの言葉に対するナザレの住民の反応は、非常に多くの人の大きな問題を示しているのではないかと思います。

イエスはおっしゃいました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハ8,34)、と。イエス・キリストが言われたとおりです。罪を犯す人は、麻薬中毒者やアルコールの依存者と同じように、罪である行動から、この行動が実際にもたらすことのできないことを期待しています。そして、罪に騙されているということ、つまり自分が期待した通りに生かされているのではなく、逆に害をもたらされているということが分かっても、分かっていないふりをしたり、「いつでもこの道を離れることができるのだが、今はその必要がない」と自分に言い聞かせたりして、この間違った道を歩み続けます。そのうちに、何が正しいか、何が正しくないか、すなわち、何が自分を生かすか、何が自分を滅ぼすかということが分からなくなり、そのような生き方しかないと確信を持つようになって、滅びに向かっているこの道から離れることができずに、自分と周りにいる人にまで害を与え続けるのです。

この人は、「問題がない」とか、「何とかなる」とか、「心配しなくてもいい」というような話に喜んで耳を傾けますが、「あなたの生き方は間違っている」とか、「あなたの生き方をそのまま続けると滅びる」とか、「癒すために、苦い薬を飲んで、新しい生き方を身に付けなければならない」などのような話を聞くのは嫌いです。けれども、この話を聞いて、辛くても自分の現実を認めた上で、完全に癒すことのできる医者の指示に忠実に従うほかに、自由になる希望、また、心の中で求めている目的に向かって歩むようになる希望が、あるのでしょうか。

わたしたちの神である父よ、
心を尽くしてあなたに仕える喜びと、
すべての人を愛する恵みをお与えください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第3主日C年 (ルカ1,4-4.14-21)

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカ4,18-19

福音記者聖ルカが、自分の福音書をテオフィロという人のために書き記すと伝えています。テオフィロという名は「神に愛されている者」、また「神を愛している人」を意味します。父である神はすべての人を愛していますので、この福音書は、誰か一人の人のために書かれたのではなく、すべての人のために書かれたということになります。同じことを聖書全体についても言うことができます。すなわち、聖書は父である神がいろいろな人を通じて、ご自分の愛する子らのために、送ってくださった手紙であるということなのです。

誰かが愛する人に手紙を送るとき、まず自分の愛を表したいのではないかと思います。同じように、父である神は聖書の言葉によって、私たち一人ひとりに対するご自分の愛を表しているのです。

また、親が自分の子どもに手紙を書くならば、その中でいろいろな注意をしたり、アドバイスを与えたりするし、子どもが困っているならば、その子を励ましたり、力付けたりするような言葉も書くでしょう。同じように、聖書の言葉によって、父である神は私たちを教え、導き、慰め、励ましてくださるのです。

そういう意味で聖書はどんな本よりも重要な書物ですが、その言葉が父である神が求めておられるような実を結ぶためには、神に対する信頼と開かれた心が、それを読む人には必要です。なぜなら、多くの場合、神の教えは、私たちが慣れている考え方に逆らっているし、私たちの考え方の変更と同時に、生き方の変更をも要求しているからです。私たちは、聖書を読んで理解したことを実行することによってだけ、その言葉をますます深く理解することができるし、神の愛をますます強く実感し、自分が歩むべき道、また、父である神が私たちに与えてくださる使命を知ることができます。さらに、暗闇や困難の時にも聖書を読み続けると、神の言葉は必ず私たちを励まし力付けてくださるので、ますます多くの人々がどんなときにも神の言葉を読み、それに従って生きることができますように祈りましょう。

全能永遠の、神である父よ、
わたしたちの行いがいつも
み旨にかなうよう導いてください。
御子キリストのうちにあって
豊かな実を結ぶことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、
支配しておられる御子、
わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。

年間第33主日B年 (マコ13,24-32)

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」マコ13,31

典礼暦の終りが近づくと、私たちはいつも同じ事実を思い起こさせられます。それは何かというと、私たちが今生きているこの世界は、いつまでもそのまま続くものではないということなのです。言い換えれば、何時か必ずこの世の終わりが来るということなのです。世界の終末があまりにも抽象的な発想であると感じるならば、この世のことの代わりに自分の人生のことを考えてもいいと思います。

この世がいつか終わるという事実、また、この世における自分の人生も必ず終わるという事実は、当然と言えば当然ですが、なぜか多くの人がそれを忘れがちです。もしかしたら、それは多くの人がこの世、またはこの世の人生にのみ希望をおいて生きていますから、この世の終わり、または、自分の人生の終わりを意識すると、自分の希望には何も根拠がないということや自分の無力、自分の努力の空しさがはっきりと見えて、非常に恐ろしくなるからではないかと思います。

けれども、この世ではなく、キリストに希望をおく人にとって、世の終わりを思い出すことは、恐ろしいことではなく、逆に喜びをもたらすものなのです。なぜなら、世の終わりは、キリストの再臨、また、キリストのすべての言葉(約束)の実現、つまり創造のわざの完成を意味するからです。

世の終わり、または、この世の人生の終わりについて考える時に、どんな感情が浮かびますか。あなたの希望は、キリストであるのでしょうか、それとも何か別のものなのでしょうか。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第32主日B年 (マコ12,38-44)

「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。』」マコ12,38-40

歴史において非常に多くの場合、いろいろな悪事を働いた人、例えば権力や富を得るために他人の名誉や評判を汚したり、争いの相手を殺したり、他人のものを奪い取ったりした人は、大勢の人々によって偉大な人物として考えられて、人々がその人に従ったことがあったでしょう。このような世間において偉くなりたい人、少なくとも偉い者として認められたい人は、イエスの時代の律法学者と同じように、偉そうな格好をしたり、他人の背中を踏んで少しでも高い社会的な地位を得ようとしたり、詐欺を働いて富を増やしたり、ありとあらゆる手段、多くの場合は不正な手段を用いて、より大きな権力を手に入れようとしたりしています。

そのような人がいても仕方がないかもしれませんが、特に寂しいことというのは、そのような人に逆らう人よりも、この人の狙い通りに動く人が沢山いるということなのです。もしかして、この人たちは、無慈悲で冷酷な人の敵になるよりも、その味方や協力者になった方が自分の益になると思うのかもしれませんが、その思いの反して、結果的に意外に大きな被害を受けても自分自身を失っても、驚くべきことではないでしょう。

人の心を見て、何よりも、善意、誠実、愛と正義を評価しておられるイエスに従おうと思うならば、この世において平等の仲間として認められず、相手にされないだけではなく、軽蔑されることもあるかも知れないという覚悟を持つ必要があると思います。そのために、やはりこの世の権威や名誉、また、この世が与える特権や富などよりも、キリスト自身との絆を大事にし、キリストの愛を一番優れた宝として認める必要があると思います。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第31主日B年  (マコ12,28b-34)

 「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」マコ12,29-31

人間は愛に生きるために創造されましたので、愛に生きている時だけ幸せです。けれども、同時に人間は非常に弱い存在であって、恐れや欲望などによって束縛されていますので、いくら努力しても愛に生きることができませんし、誰かに愛されても、この愛を滅ぼしてしまうことも珍しくありません。幸いにも、愛は人間の努力の結果ではなく、人間を創造してくださった神、愛そのものである神が与えてくださる賜物なのです。しかも、愛は神が全ての人に与えたいと望んでおられる賜物なのです。

神は人間に掟を与えることによって、ご自分のもとへの道、つまり愛の源への道を示してくださいました。残念ながら、イスラエルの歴史、また、私たちの個人的な歴史が示している通りに、人間は正しい道、つまり、自分の最高の幸福である愛への道を知らされても、またこの道を歩み出しても、なかなか最後まで辿って行くことができません。

しかし神は、愛への道を知らせるに止まったのではなく、ご自分の御ひとり子をこの世にお遣わしにもなりました。神の御ひとり子であるイエス・キリストは、愛に根差したご自分の生き方によって、またご自分の受難、十字架上の死と復活によって、愛に生きることの素晴らしさ、神ご自身の愛の偉大さと力強さを現して、人々をご自分のもとへと同時に、愛の源である神のもとへと引き寄せながら、愛の源への道を歩むために必要な力を与えてくださるのです。

ますます多くの人々がイエス・キリストを知り、信仰と信頼によってイエスと結ばれ、いろいろな束縛から解放されて、心の中で求めている完全な愛に向かって生きることができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

年間第30主日B年 (マコ10,46-52)

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。』」マコ10,48

私たちがイエス・キリストを信じるというのは、盲人のバルティマイのように「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、イエスを信頼して、イエスに私たちの暗闇を照らしていただくように、つまり歩むべき道を教えていただくように、願うということなのです。そして、バルティマイのように、今も私たちはいろいろな形で、例えばキリストの教えに逆らう消費主義や快楽主義の価値観や、それに基づく生き方を押しつけられることによって、「黙らせよう」とされています。つまりイエスに近づかないように、イエスが示してくださった道を歩まないようにされているのではないかと思います。

一生懸命に働いている消費主義や快楽主義の宣教師たちは、自分たちが何をしているか分からなくても、イエスに照らされている私たちは、彼らに騙されないように、イエスが示してくださった道を眺めるだけではなく、実際にこの道を歩むことによって、この道は本当に真の命に繋がっているということを、ますます強く自覚する必要があります。

以上の意味で、イエスを信じるというのは大きな恵みであって、幸せに生きるための大きなチャンスであると同時に、大きな責任を負うことでもあるのです。この恵みを無駄にせず、このチャンスを生かすように、やはり日常生活においてイエスの道を歩む必要があります。そのとき、自分たちが豊かな命に生きるようになるだけではなく、まだ暗闇に留まっているため、いろいろな偽預言者に騙されて死に向かって歩む人たちのために光となることによって、私たちは彼らに対する責任をも果たします。それによって、その人たちにも命に向かう道を見出すチャンスが与えられるわけです。

恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第29主日B年 (マコ10,35-45)

「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」ヘブ4,16

人間は何かの素晴らしい体験をして喜びで満たされたら、自然にこの体験を他の人に知らせたい、なるべく多くの人がこの喜びにあずかって欲しいと望むでしょう。そして、この望み通りに自分の喜びを他の人と分かち合うならば、この喜びが弱くなるどころか、ますます大きくなるのではないでしょうか。

キリスト者である私たちは、福音を宣べ伝える使命を与えられていますが、キリストとの出会いが私たちに大きな喜びをもたらし、福音が文字通りに喜ばしい知らせになるならば、私たちは何も言われなくても、自発的にその喜びを広めたいと望むようになります。この望みに従えば、与えられた使命を無理せずに果たすことができるのです。

私のキリストとの出会いから、もう30年以上経ちましたが、その時の喜びはまだ消えていませんし、今でも、私の大きな原動力になっています。その時、一番嬉しかったのは、イエスがただの福音書の主人公ではなく、本当に生きておられる現実的な方であるとの事実を発見したということでした。この体験によって、イエスは実際にいらっしゃると実感しただけではなく、イエスは私を愛し、値打ちがない私に対しても愛を求めておられるということ、またご自分に従ってほしいと、無力な私の協力を求めておられるということを、言葉で言われたよりも、はっきりと理解しました。心臓が破れそうになったほど大きな驚きと喜び、深い平安で満たされたこのイエスとの出会いが、いつまでも続くことを望んでいました。結果として、イエスの素晴らしさ、イエスの愛、イエスが下さる平和と喜びを、なるべく多くの人に知っていただきたいと思うようになり、宣教師になったわけです。

キリストとの出会いに伴ったあなた自身の喜びは、どんなものだったのでしょうか。今はどうなっていますか。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。