11月19日 年間第33主日A年 (マタ25,14-30)

「1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」マタ25,18

「タラントンのたとえ」の中に登場する一人の人が、主人から与えられた使命を果たすことができなかったのは、妬みのせいだったのではないかと思います。確かに、5タラントンや2タラントンを預かった人と比較すれば、この人はたったの1タラントンしか預からなかったと言えますが、1タラントンというのは20年間の収入に当たる非常に大きな金額でした。この人のように他人を妬む人は、持っているものを喜び、それを正しく用いる代わりに、他人が持っているものだけを気にして、自分が持っているものを正しく評価できないために、それを無駄にしてしまったとしても、決して珍しいことではないでしょう。

1タラントンを預かった人が何もしなかったもう一つの理由として考えられるのは、競争心です。1タラントンを持つ人よりも、5タラントンや2タラントンを持つ人の方が有利な立場にありますので、彼らより沢山もうけることは、完全に不可能ではないとしても、非常に難しいことでした。他人に勝たなければならないとか、他人よりもよくできなければならないというような動機だけで動いている人は、成功する可能性が全くないか、非常に低いときに、やる気がなくなって、そのまま何もしないでいるならば、誰かに負けることよりも、大きな損をしてしまうのです。

コルカタの聖テレジア(マザー・テレサ)が言ったように、神が人間に求めておられるのは、成功することではなく誠実をつくすことなのです。大事なのは、人が他人によって評価されている仕事をしているかどうかではなく、やっていることによってどんな人になっているかということなのです。神が私たちの力に応じて、様々な使命を与えてくださっているのは、私たちがこの使命を忠実に果たすことによって、キリストとの愛と信頼の絆を強めるためなのです。なぜなら、私たちは、キリストとの交わりのうちに生ることによってキリストのようになるときだけ、神ご自身という最高の賜物を受け入れることができるからです。

すべてを治められる父よ、
み旨に従って生きる人に、
あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。
あなたからいただくすべてのものが、
救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

11月12日 年間第32主日A年 (マタ25,1-13)

「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタ25,13

イエス・キリストは、世の終わりに再臨されると約束してくださいました。その時、神の国が完成されるし、誰一人イエスの権威を否定することができなくなります。キリスト者として生きることの一つの意味というのは、キリストの再臨の時に完成される神の国に受け入れられて、キリストと共に、またキリストによって、神ご自身と救われたすべての人々と共に、永遠に生きるために準備することなのです。

世の終わりに来られるイエス・キリストは、凡そ2000年前に復活し、今も生きていて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28,20)と約束してくださった方と同じ方なのです。確かに、私たちには、今イエス・キリストの姿が見えないし、声も聞こえませんが、いつも一緒にいてくださるイエスを信仰によって知ることができますし、愛することによってイエスと結ばれて、イエスと共に生きることができるのです。

神の子であり、世の唯一の救い主であるイエス・キリストと共に生きることは、一番賢い生き方であり、最も確かな希望と最も大きな喜びと平和で満たされた生き方として、この世において可能な生き方の中で最も幸せな生き方なのです。

私たちは、イエス・キリストと共に生きることによって、多くの人々にイエスが下さる信仰、希望と愛を伝え、イエスの再臨のために準備をすることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。
罪から解放されたわたしたちがあなたの国を待ち望み、
正義を行う者となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

11月5日 年間第31主日A年  (マタ23,1-12)

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」マタ 23,11-12

律法学者たちやファリサイ派の人々は、神が与えてくださった掟に従えば、神から祝福を受ける、つまり報いを与えられると信じていました。しかし、彼らにとって神の祝福を受けるとは、自分の欲求を神に満たしてもらうということでした。そして、掟を守るように一生懸命に努力しても、自分の欲求はなかなか満たされなかったので、神を頼りにすることを諦めて、力が許す限り、自分で自分の欲求を満たそうとするようになったようです。

彼らが自分の努力によって手に入れることができたのは、会堂の上席に座ることや、挨拶されることや、先生や教師と呼ばれるというような、ユダヤ人の世界の中のちょっとした特権だけでしたので、その特権によって自分たちが偉い人間であると感じることができたでしょうし、そんな自分のことで満足していたかもしれません。しかし、彼らの心は、信頼せず、頼ることのできなかった神と、彼らが軽蔑していた人々から離れていたので、彼らが得たことよりも、はるかに大切なもの、本当の価値のあるものを失っていたわけです。

神がくださった掟やイエスの教えは、自分たちの欲求を満たすための条件ではなく、創造主である神が定めた人生の目的への道を示す道標であり、神を信頼して、この道標に従う人は、すでに神の命にあずかり、神との交わりの内に生きて、人間として成長していることをますます多くの人が意識して、イエス・キリストとともにこの道を歩むことができますように祈りましょう。

すべてを一つに集めてくださる父よ、
信じる人々が、
あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
あなたの恵みによるものです。
今ここに集まっているわたしたちが、
約束された国に向かって
ともに歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月29日 年間第30主日A年 (マタ22,34-40)

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」マタ22,37-40

数年前に、 「おそらく、神が存在していないので、人生を楽しんでください」という言葉が書かれた広告がロンドン市で現れたようです。この広告を出したのは、無神論者会です。この言葉を見る限り、彼らにとって神とは、人間が楽しく(幸せに?)生きるのを妨げる存在、または発想なのです。もしかしたら、彼らが考えているような神は、人間をいじめるために、楽しいことを禁じて、楽しくないことを命じる方なのです。そうだとすれば、実はそんな神は存在していないので、安心しましょう。

キリストが啓示してくださった神が人間から最終的に求めているのは、ただ一つ、それは愛することなのです。神は、私たちから愛することを要求しているだけではなく、キリストによって、愛することが不可能である状態から私たちを解放し、愛する可能性も与えてくださったのです。神が遣わしてくださったキリストの救いの業のおかげで、私たちは愛に根ざした、最も人間らしい、最も幸福な人生を送ることができるようになったわけです。本当に存在している神は、人間にとって最も幸せな生き方を妨げるのではなく、逆にそれを可能にしてくださる方なのです。ですから、神が存在していなければ、私たちには幸せに生きる可能性すらなく、いろいろな苦しみの中で、時に自分の欲望が満たされるというような希望しか持つことができなかったがゆえに、私たちは実際には、絶望的状態の内に生きたはずなのです。

しかし、神の望みに応えて愛に生きれば、人間は必ず永遠の命を受け継ぐということを、イエス・キリストが私たちに約束してくださいました。永遠の命とは、神の愛のうちに永遠に生きることなのです。要するに、人間が地上で、愛に生きることを学ぶならば、この愛が死を超えて、永遠に延ばされるということになるわけです。神のおかげで、私たちはこの地上だけではなく、永遠に愛することができますので、神が存在していないということではなく、キリストが啓示してくださった神が本当に存在しているということこそ良い知らせで、宣べ伝える価値のある事実なのです。

恵み豊かな神よ、
わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。
すべてに越えてあなたを愛し、
約束された永遠のいのちを受けることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

10月22日 年間第29主日 A年  (マタ22,15-21)

「イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」マタ22,21

「皇帝のものは皇帝に…返しなさい」という言葉の意味は割合と理解しやすいものです。支配者に「返す」べきものは、支配者が作成した法律によってはっきりと決められています。国民には、嫌でも決まっている義務を果たすか、義務を果たさずに、同じ法律で定められている刑罰を受けるかという選択しかありません。

聖書には神が与えた掟が書き記されているし、その掟とイエスの教えに基づいて、教会は信者が守るべきことを具体的に決めています。けれども、私たちは 義務的に、場合によって刑罰を恐れて国の法律を守っているような仕方で、神の掟や教会の決まりを守るだけで十分なのでしょうか。それだけで、「神のものを神に返す」ことになるのでしょうか。決してそうではありません。

律法を忠実に守るように努力していたファリサイ派の人たちについて、イエスはこう言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている』」(マコ7,6)、と。心はこの世の支配者や権力者たちから離れていても、彼らが定められた義務さえ果たせば、十分でしょうが、神が何よりも求めておられるのは、私たちの心、つまり私たちの愛なのです。神の掟を守ることは、神に対する愛と信頼の表現であるときだけ、神が喜ぶものになるのです。

イエスは「神のものは神に返しなさい」という言葉を、国民に向けて語っただけではなく、支配者や権力者に向けても語っています。要するに、国民だけではなく、国を治める政治家たちも、神のものを神に返さなければならないということなのです。そのために、支配者たちには神の掟に逆らう権利がありません。もし、彼らが神の掟に逆らうような法律を作成するならば、国民にはそれに従う義務がありません。正しい手段を用いて反対を示してもいいのですが、神の望みに逆らう反乱のような手段を用いる権利はありません。ですから、支配者に従うのではなく、自分の良心に従うことを選ぶ人は、イエスや大勢の殉教者と同じように、神がこの世の支配者の悪よりも力強い方であると信じて、不正な法律が定めている不正な罰を受ける覚悟をする必要があるのです。

喜びの源である父よ、
あなたに感謝をささげるために、
わたしたちはここに集まっています。
キリストの復活を信じるわたしたちが、
日々の仕事を通して神の国のあかしとなることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月15日 年間第28主日 A年 (マタ22,1-14)

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」マタ22,2-3

多くの人々は、置かれている境遇に左右されています。自分の想像や期待通りになっている時は、喜びや安心を感じて、幸福感を味わっていますが、そうでない時は、がっかりして、怒り、不満、悲しみ、不安というような感情が湧き出て、人は不幸になります。

聖パウロは「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(フィリ4,11)と書いて、自分の精神的な状態は、周りの環境に支配されないようになったと告白します。このことが可能になったのは、つまり聖パウロが外部の境遇の影響から解放されたのは、彼を強めてくださったイエス・キリストのお陰だと言っています。

永遠に続く幸福を象徴している婚宴には、すべての人が招かれています。残念ながら、この招きを断る人がいます。この人たちは、自分の思いに従って幸せになろうとしていますが、彼らが頼りにしているものは変化しやすいもので、何時か必ず過ぎ去るものですので、彼らが味わっている幸福感は一時的なものにすぎないのです。

イエスの招きを受け入れて、宴会に参加する人が、変わることのない永遠に続く幸福を味わうことができるのは、イエスが彼らに特別に美味しい食べ物や飲み物を与えるからではありません。それは、イエスが彼らにご自分自身を与えるからなのです。

死に打ち勝って永遠に生きておられるイエスが、永遠に続く喜びの唯一の源ですので、イエスを愛さなければ、たとえ天国に入っても幸せにはなれません。けれども、イエスを愛すれば、天国に入らなくても、聖パウロのようにどんな状況においても、幸せに生きることが可能になるのです。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月8日 年間第27主日A年  (マタ21,33-43)

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」マタ21,33

「ぶどう園と農夫」のたとえの家の主人が、自分のぶどう園を農夫に貸したので、農夫たちは安心して生活することができました。けれども、農夫たちは主人に感謝せず、契約に従わずに収穫の一部を主人に与えなかっただけではなく、主人の息子を殺して、借りていたぶどう園そのものを自分のものにしようとしました。このような振る舞いの結果として、収穫とぶどう園だけではなく、自分の命さえも失ったのです。

このたとえによってイエスは、イスラエル人の歴史と同時に、私たちの現実を描いています。私たちの命を始め、いろいろな能力と才能、また、私たちが生きているこの世界とその中にあるすべてのものは、神が創造して、私たち人間に与えてくださいました。神がそうなさったのは、私たちがそれらのものを神の望みに沿って用いることによって、永遠に残る実を結ぶことを求めておられるからです。この実というのは、私たち個人の完成と、神が創ってくださった世界の完成なのです。

残念ながら多くの人たちは、すべてを与えてくださった神に感謝して、神の望みに従って生きる代わりに、「ぶどう園と農夫」のたとえの農夫と同じように、自分がすべてのものの所有者であるかのように、神の望みを無視して、自分の野心や他の欲求や欲望をできる限り満たすために、いろいろなものを勝手に利用しています。そのような生き方は個人の滅びだけではなく、全世界の破壊にも繋がっているということが、はっきりと見えているのではないでしょうか。

このように生きている私たちは、まだ遅くない内に、自分の過ちとその結果に気づいて悔い改め、存在しているすべてのものの創造主であり、唯一の所有者である神の望みに従って生きるようになって、神が求めておられる実を結ぶことができますように祈りましょう。

全能永遠の神よ、
あなたの恵みは限りなく、
人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。
わたしたちを罪の重荷から解放し、
まことの自由に導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

10月1日 年間第26主日 A年 (マタ21,28-32)

「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」エゼ18,25

自分が歩んでいる道は正しいかどうかということを確かめるために、どうすれば良いのでしょうか。それは当然ながら、目指している目標に近づいているかどうかを確認することです。もし、その道を歩むことによって目標に近づいているならば、この道は正しいですが、目標から遠ざかっているならば、正しくないということになります。

人生の場合も、同じことが言えると思います。自分の生き方が正しいかどうかということを判断するために、人生の目的を基準にしなければなりません。けれども、ここに問題があります。人生の目的がはっきりとしないために、多くの人が自分の欲求や欲望を基準にしてしまいます。従って、欲求や欲望を満たすことができるならば、正しい道を歩んでいると浅薄にも思っているのです。

誰でも体験していることだと思いますが、私たちの欲求や欲望は、互いに矛盾していたりして、私たちが求めていることは、必ずしも私たちにとって良いものであるとは限りません。また、欲求や欲望は満たされることによって消えるのではなく、段々と大きくなっていく一方です。そのために、それを道しるべにする人は、たまに満足感や喜びを味わうことがあっても、自分や他人を傷つけることがあるし、苦労してよく動いても、どこにも近づけずに、グルグル回っているだけです。

キリスト者が目指している目標は、はっきりしています。それは、キリストのような人になることなのです。従って、自分の生き方によって、少しずつキリストに似ているようになっているならば、安心してこの生き方を続ければいいわけですが、そうでないならば、この生き方を正して、キリストの道をただ眺めるのではなく、それを実際に歩む人にならなければならないのです。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

9月24日 年間第25主日A年 (マタ20,1-16)

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」マタ20,15

常識的に考えれば、二人の人が全く同じ仕事をしている場合は、長く働いた方がより大きな報酬をもらうことが正しいことですが、イエスのたとえの中に登場する労働者は、長く働いても短く働いても、皆全く同じ報酬をもらいます。一番長く働いた人が不満を言っても不思議ではないでしょう。

けれども、イエスは人間の正義について語るのではなく、神の正義について語っておられます。もし、神の正義感が人間の正義感と同じならば、誰が神の国に入り、神の命にあずかることができるのでしょうか。聖パウロが言っている通り、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(ロマ 3,23)いるからです。

幸いに、神の正義は人間の正義と全く異なるものです。神にとって本当に正しいことというのは、善に相応しい報いを与え、悪に相応しい罰を与えるということではなく、神の望みが実現されることで、神の約束が成就されることなのです。

実は、永遠の命とは、人間の良い行いのための報いではなく、神の無償の賜物なのです。そして、聖パウロが言っている通り、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモ2,4)。要するに、神は気前の良い方ですので、この最高の賜物をすべての人に与えたいと望んでおられるのです。

私たちは、この賜物を受けているかどうか確認したいならば、自分の行いを見つめる必要があります。なぜなら、救いの賜物を受けるとは、神の愛と命と共に、神ご自身を受け入れること、神の愛の内に、神と共に生きることであるからです。従って、私たちの行いがどれほど、神と完全に一致しておられたイエス・キリストの行いに似ているかということを見分けることによって、私たちがどれほど神の賜物を受けているかということが分かるわけです。

ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
あなたは愛のおきてによって、
すべてを完成に導いてくださいます。
わたしたちが互いに愛し合うことによって、
人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

9月17日 年間第24主日A年 (マタ18,21-35)

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」マタ18,21-22

私たちは、自分の体を傷付けたら、この傷の大きさに応じて相応しい手当をしなければ、この傷が治らないし、私たちは普通の生活に戻ることができないと知っているので、その通りに手当するのは常識でしょう。

体の傷に関する常識は、残念ながら、精神的な傷に対しては常識になっていません。というのは、殆どの人は、精神的な傷を負わされた後に、この傷を手当する代わりに、この傷を軽んじたり、忘れようとしたりすることによってそれを放っておくか、この傷を負わせた体験をいつも思い起こしたり、これについていろいろな人に話したりすることによって、この傷を常にいじるか、どちらかだからです。両方の場合とも、傷が治らないし、私たちは、前の生活に戻ることもできません。おそらく、多くの人がこのような態度をとるのは、自分が出逢った悪があまりにも大きくて、相手をゆるすことも、受けた傷が治ることも不可能であると考えて、前の生活に戻る希望が持てないからでしょう。

確かに、精神的な傷の癒えることは、体の傷の癒えることよりも難しく、大きな努力や長い時間がかかることもありますが、私たちは、この傷やそれを負わせた苦しい体験をキリストの目で見ることができるならば、癒える過程を早めることができます。

キリストにとって最も大切な宝とは、父である神との愛の交わりでした。そして、イエスは神の愛をよく知っていたので、悪が人間からいろいろな大切なものを奪い取ることができても、決して神の愛を奪い取ることはできないし、神との愛の交わりを滅ぼすこともできないという確信を持っていました。それから、神はもっとも恐ろしい悪を、この悪の攻撃を受けた人との愛の交わりを深めるために用いることができると知っていました。ですから、イエスはどんな大きな悪と出逢っても、すべてを父である神にゆだねることができたがゆえに、受けた傷はすぐに治りましたし、イエスの愛、神に対する愛も、悪を行った人に対する愛も深まっていったのです。

天地万物を造り、治められる全能の神よ、
あなたの民を顧みてください。
わたしたちが救いの力を知り、
心を尽くしてあなたに仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。