年間第25主日C年 (ルカ16,1-13)

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ルカ16,10

人間の財産や富というのは、必ずしもお金のことではありません。人によってそれは体力や体そのものであったり、いろいろな才能、能力、経験や学歴であったり、仕事や社会的な地位、また、いろいろな人間関係などのようなものであったりします。あなたの財産や富は、何でしょうか。また、あなたはそれをどのように、何のために用いているのでしょうか。

多くの人は、自分の財産や富が自分のもの、例えば自分が働いて手に入れたものですので、それを好きなように使う権利があると考えているようです。このような考えに従って、自分の富を自分のためにだけ利用する人は、そんなつもりがなくても、いつの間にか自分の富に仕えるようになって、この富によって支配され、場合によっては滅ぼされることさえあるのです。

イエス・キリストが私たちに教えているのは、私たちが持っているすべての富は、この世界を創造してくださった神からいただいたものであるということです。従って、神こそが、私たちが持っている財産や富の本当の所有者であって、私たちは、その富の管理者にすぎないわけです。神がこの賜物を何らかの目的のために与えてくださったので、自分の財産や富の最も賢明な扱い方というのは、それを私たちに委ねた神の意向に従って管理することなのです。最終的に、神は私たちのために、私たちが愛に生き、私たちが愛において成長することのみを求めておられますので、任されている財産を神の望みに従って使うとは、それを自分のためにだけではなく、他の人のためにも用いるということなのです。

イエス・キリストは、このように教えただけではなく、ご自身が正にその通りに生きておられたのです。実際に、イエスはこのように生きられたからこそ、完全な人になり、すべての人のための救いの源になられたのです。

イエスの模範と力に支えられて、私たちは世界の常識に逆らって、自分の財産を父である神の望みに従って管理することができますように。そしてそれによって私たちが生かされるだけではなく、私たちが出会う多くの人々も生かされますように祈りましょう。

ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
あなたは愛のおきてによって、
すべてを完成に導いてくださいます。
わたしたちが互いに愛し合うことによって、
人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

三位一体の主日C年 (ヨハ16,12-15)

「(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」ヨハ16,14-15

神の内面的な命を現す三位一体の神秘は、人間による考察の結論ではなく、神ご自身がご自分を啓示することによって、人間に知らせたことなのです。

元々イスラエル人たちは、他の民族と同じように沢山の神々を信じていました。けれども、この民の歴史の中で特別な働きをされた神は、ご自分が唯一の神、全世界の創造主、つまり、あらゆる存在と命の源である父であることを知らせてくださいました。この世に来られた御ひとり子を通して神は、無条件に、また無限に私たちを愛しておられる救い主として、ご自分を現してくださいました。私たちを最後まで愛し、ご自分の命をささげることによって、ご自分の使命を果たして、御父のもとに戻られた御子は、御父の霊であり、また、ご自分の霊である聖霊を遣わしてくださいました。現在、聖霊は教会の中で、また、教会を通して働いて、イエス・キリストが成し遂げられた救いのわざを完成に導く方として、ご自分を現してくださっています。このように、救いの歴史の中で、神は、ご自分自身を唯一の神として、と同時に、御父と御子と聖霊という三つのお方(ペルソナ)として、啓示してくださったわけです。

三つの別々のペルソナが唯一の神であることは、確かに非常に大きな神秘であって、私たちの理解を超えるものですが、この神秘から少なくとも次のようなことが分かると思います。つまり、神は唯一の存在でありますが、孤独な存在ではないこと、また、ご自分のためにだけ生きておられるのではなく、他者のために、他のペルソナのために生きておられる方であるということなどです。聖ヨハネが書き記した通りに(1ヨハ4,16)、神は愛です。つまり神は、私たちを愛しておられる方であるのみならず、愛そのものなのです。ですから、三位一体の神秘は、実は、愛の神秘なのです。この神秘から、完全に愛し合う複数のペルソナは、一体になるほど完全に一致することが分かります。ですから、愛し合う人にとって、死によっても破られない絆となっている愛とは、それを完成させることによって、完全な一致をもたらすものであると言えるわけです。

聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝するわたしたちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イェスーキリストによって。アーメン。

 

王であるキリスト・年間第34主日B年 (ヨハ18,33b-37)

 「イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」ヨハ18,37

「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マコ10,45)と言われたイエスは、王と呼ばれるよりも、羊飼い、しかも、自分の羊のために命を与える良い羊飼いと呼ばれることを好まれたようです。典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日を祝う際に、それを忘れてはいけないと思います。

やはり今日読まれる福音の中でイエスは、自分自身がこの世の王たちと全く異なっているということを言われています。一人ひとりのために幸福を求めて、この幸福へと導くことのできるイエスは、この世の王や他の支配者と違って、人の自由意志を尊重しておられるので、暴力を用いて人に服従を強いるようなことを絶対にされません。イエスの唯一の「武器」というのは、真理について証しをすることなのです。

真理について証しをするために生まれたイエスは、自分の力に頼って自分の努力によって幸せになろうとしている人に、その努力の空しさや危険性を示してくださいます。と同時に、永遠に続く幸福の唯一の源である神のもとに人を引き寄せるために、神の愛の偉大さをご自分の言葉と行いによって現してくださるのです。

自分たちについての真理を示されたために、イエスに対して怒りを覚えて、神の愛に心を開くことのできなかった人たちは、イエスを十字架に付けました。十字架に付けられていたイエスは、全く無力に見えていましたし、その活動も失敗に終わったように見えましたが、不思議にもそのとき、イエスは一番力強く、真理について証しをしていたのです。

十字架に付けられているイエスの姿において、ますます多くの人々が、自分の罪についての真理、また、父である神の愛についての真理を見出すことができますように。そして悔い改めて、イエスのもとに近づくことによって、永遠の命の源である神のもとに近づくことができますように祈りたいと思います。

全能永遠の神よ、
あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、
すべてが一つに集められるようお定めになりました。
造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、
栄光を終わりなくたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

聖母のみ心 (ルカ2,41-51)

「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ルカ2,49-51

イエスのお母さんマリアは、思いがけない出来事を体験したときや、分からない言葉を聞いたときに、それを理解しようとしていますが、理解できない場合には、それを心に納めていました。「心に納めていた」というのは、必要なときにこの出来事や言葉の意味が分かってくるだろうとか、自分にははっきりとは神の働きが見えなくても、父である神がご自分の意志に適わない出来事においても必ず働いてくださっているので、心を開いて、この働きや自分のための導きである神の言葉を受け入れるだけで充分であるという確信を、持っていたということであったでしょう。

私たちは、聖母マリアに倣って、父である神の働きがはっきりと見えても、見えなくても、この働きの意義が分かっても、分からなくても、神の知恵と力を信頼して、できる限り協力しながら、結果を神にゆだねることができますように祈りましょう。

いつくしみ深い父よ、
あなたは聖母のみ心を、
聖霊のふさわしい住まいとしてくださいました。
聖マリアの取り次ぎを求めるわたしたちも、
聖霊の神殿となることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

キリストの聖体B年 (マコ14,12-16; 22-26)

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」マコ14,22

私たちを愛しておられるイエス・キリストが、いつも私たちと一緒にいたいという望みはよく分かっていても、何故、イエスはパンとぶどう酒、つまり食べ物と飲み物の形において、私たちのところに残ってくださったのかということが、分かりにくいかもしれません。

考えてみれば、私たちが生きるために、何よりも必要としているのは、やはり食べ物と飲み物です。また食べ物は、生きるために一番望ましいものであるうえに、近づきやすいもので、自分を生かすために誰でも遠慮なく用いるものです。おそらく、イエスが食べ物と飲み物の形において私たちと共に残ってくださったのは、私たちが体を養うために食べ物と飲み物を必要としているように、心と魂を養うためにイエスを必要としているということを示すためでしょう。それから、私たちが遠慮なく食べ物に近づいてそれを食べるように、安心してイエスに近づき、心を開いてイエスを受け入れれば、私たちは生かされるということをイエスが望んだのでしょう。

食べるだけで、体を動かさないならば、健康に害を与えることがあります。同じように、キリストの体を受け入れるだけで、キリストに倣って生きようとしないのは、害をもたらすものであることを忘れないようにしましょう。

人間が食べるものは、生きるために必要な力を人間に与えるだけではなく、その体の一部になります。けれども、ご聖体を拝領することによって私たちはキリストとますます深く結ばれて、キリストのようになっていきます。キリストと一体になることが、聖体拝領の最終的な目的であると言えるでしょう。

恵み豊かな父よ、御子キリストは、
その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。
主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、
主の死を告げ知らせることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

三位一体の主日B年 (マタ28,16-20)

「(イエスは、弟子たちに言われた)『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」マタ28,20

誰かに「わたしはいつも、あなたと一緒にいる」と言われたら、どう思いますか。どんな気持ちになりますか。それは、きっと誰に言われるかによって異なるでしょう。自分の生活と何の関係もない人、つまりいてもいなくても何も変わらないような人でしたら、あまり気にしないでしょう。嫌いな人、それとも自分が怖がるような人でしたら、悲しくなって、気を落とすでしょう。でも、本当に好きな人、憧れの人や非常に尊敬している人、また、誰よりも力と助けになるような人でしたら、嬉しくなって、安心して、心が強くなるでしょう。

「わたしはいつも、あなたがたと一緒にいる」とイエスに言われた使徒たちは、非常に嬉しくなったし、心が強くなったに違いないと思います。なぜなら、彼らが、イエスと出会ってから、三年以上イエスに従って、イエスの素晴らしさ、イエスの愛やイエスの力などをよく知るようになったからです。ご自分の命をささげたほど自分たちを愛してくださり、復活によって死に打ち勝ったイエスこそ、誰よりもありがたい存在であって、本当の救い、本当の幸福を与えてくださる方であることを知った弟子たちは、いつまでもイエスと共にいたいと望むようになっただけではなく、イエスのことをすべての人に知らせたいとも望むようになったのです。この望みこそ、彼らにとってイエスがどれほど大切な方であったか、彼らがイエスをどれほど愛していたかということをよく表しているわけです。

あなた自身がイエス・キリストに、「わたしはいつも、あなたと一緒にいる」と言われたら、どう思いますか。どんな気持ちになりますか。この考えや気持ちは、自分自身とイエスとの関係について何を表しているのでしょうか。

ますます多くの人々がイエス・キリストを知るようになり、イエスと愛の絆で結ばれることにより、完全な愛によって一体となっている父と子と聖霊の命にあずかり、その愛の交わりのうちに永遠に生きることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
神のいのちの神秘を示してくださいました。
唯一の神を礼拝するわたしたちが、
三位の栄光をたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イェスーキリストによって。アーメン。

 

聖霊降臨の主日B年 (ヨハ15,26-27;16,12-15)

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」ヨハ16,13-14

聖霊降臨の祭日は、イエス・キリストが遣わしてくださった聖霊が、使徒たちと彼らと一緒にいた他の弟子たちの上に降ったことの記念であるだけではなく、キリストの体である教会の誕生の記念でもあります。なぜなら、神が土から人間を形づくって、その内にご自分の息吹を吹き込んでから、人間が生きた者になったように、イエス・キリストが集めた教会に、神の霊である聖霊が「吹き込まれた」ときから、教会は生きた者、キリストの生きた体になったのです。

教会は、イエス・キストの生きた体ですので、生きた聖霊によって生かされ、また、聖霊によって導かれる教会の働きは、イエス・キリストご自身の働きです。したがって、イエス・キリストは今も、教会を通してご自分の救いの働きを続けておられるのです。実は、イエス・キリストが昇天された後にも、救いの働きを続けるためにこそ、教会を創ってくださったので、救い主の働きを続けることが、教会が創られた意義であり、教会の存在の意義なのです。

洗礼を受けるときに、私たちも聖霊を受け、神の命にあずかり、神の子どもになったと同時に、キリストの生きた体である教会の一部となりました。ですから今、教会の使命が、私たちの使命であり、教会の存在の意義が、私たちの存在の意義なのです。

私たち一人ひとりが聖霊に生かされ、聖霊の導きに従って生きることによって、三位一体の神との愛の交わりを深めながら、与えられた使命を果たし、できるだけ多くの人々を父である神のもとに導くことができますように祈りましょう。

すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

主の公現 (マタ2,1-12)

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」マタ2,1-2

福音書には、ベツレヘムで生まれたイエスを拝みに来た羊飼いたちと三人の博士について書いてあります。羊飼いたちと学者たちとの間にはいろいろな違いが沢山あるでしょうが、少なくとも一つの共通点があると思います。それは何かというと、謙遜なのです。

おそらく羊飼いたちは、自分の仕事しか知らないほど素朴な人でしたから、幼い子どもたちが両親の言葉を信じるように、素直に天使たちから伝えられた知らせを受け入れました。博士たちは、当時の学者でしたので、本当の学者らしく、勉強すればするほど自分の限界を良く意識して、ますます謙遜になっていたので、神の導きに従うことができ、自分の理解力を超えるものであっても、幼子において啓示された真理を受け入れることができたのです。

現在は、教育の発展の結果、素朴な羊飼いのレベルを超えている人が大勢いますが、博士たちのレベルに届く人は、それほど多くないようです。少しだけ学んで、もうすでにすべてを知っていると思い込むがゆえに、子どもの素直な心を失い、それでいてなお学者の知恵を得ていない人たちは、自分の限界を認めることなく、自分たちを超えるものを受け入れることができないのです。恐らくそのため、現代の多くの人々は、人間の知恵をはるかに超える神によって啓示された真理に対して心を閉ざし、表面的には賢そうでも、実際は偽りのもので満足しようとしているのではないでしょうか。

すべての民の光である父よ、
あなたはこの日、星の導きによって
御ひとり子を諸国の民に示されました。
信仰の光によって歩むわたしたちを、
あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

12月31日 聖家族B年 (ルカ2,22-40)

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」 ルカ2,40

神が一緒にいてくだされば、それとも神が祝福してくだされば、いろいろな問題や困難を避けることができると思う人が大勢いるようです。それが事実でしたら、どうしてマリア、ヨセフとイエス、つまり聖家族には、イエスが生まれる前にも生まれた後にも、そんなに沢山の難しい問題や困難があったのでしょうか。神は彼らと共にいなかったのでしょうか。彼らを祝福していなかったのでしょうか。

聖家族が体験していた問題や困難は、確かに彼らの苦しみになっていましたが、この家族を壊すことはできなかったし、イエスの成長を妨げることもできませんでした。いろいろな困難に直面していた家族の中で育てられたイエスは、他の人、特に困っている人や苦しんでいる人に対して、思いやりのある心を持つ完全な人になることができたのです。

私たちと共にいてくださる神が私たちを祝福してくださるというのは、私たちが歩む道に現れるすべての障害物を片付けてくださるということではなく、それを乗り越えるために必要な力を与えてくださるということであり、また、出逢う悪からさえも善を引き出してくださるということなのです。もし、私たちが、聖家族のようにいつも神を信頼して、その導きに従うならば、どんな問題や困難に直面しても、それが私たちに害を与えないだけではなく、私たちの益になるよう働くという確信を持つことができますので、いかなる問題や困難も恐れる必要はないのです。

恵み豊かな父よ、あなたは、
聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、
愛のきずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

11月26日 王であるキリスト・年間第34主日A年 (マタ25,31-46)

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」マタ25,40

イエスがピラトの前で言ったように、ご自分の国はこの世に属していません(ヨハ18,36)。 したがって、王であるイエス・キリストの王国はこの世の王国と異なるものですし、イエス自身もこの世の王たちとまったく異なっておられる王なのです。イエスは軍隊も警察も持っていないし、誰にも服従を強いることもなければ、ご自分の王国を暴力によって守ったり、広めたりすることもありません。それからキリストは、仕えられる王ではなく、仕える王なのです。しかも、人の善のためにご自分の力を尽くすのみならず、ご自分の命さえもささげます。なぜなら、イエスは、ご自分の味方となっている人だけではなく、すべての人を愛しておられる王であるからです。

多くの人にとってそのような王は、非常に弱く見えるし、無視しやすくて、侮辱しやすい者なのです。けれども、イエスはご自分を無視する人も、ご自分を侮辱する人も愛し続けます。そして、この愛のゆえに、この人たちがイエスを自分の王として、自分の主として認めるようにと、ご自分の王国、つまり神の国に入るようにと、絶えず招き続けるのです。決して滅ぼされることも、消えることもないこの愛こそ、イエスの力なのです。死よりも強いこの愛のために、イエスの支配は終わることがないし、その王国は永遠に存在し続けるのです。

イエスの招きに応えて、イエスを本当に自分の王、自分の主として認めた人は、イエスと同じように愛に生きています。自分を生かすために他人を利用するのではなく、必要があれば自分を犠牲にしながらも、他人の善のために力を尽くします。したがって、愛に生きている人は誰でも、たとえイエスを知らなくて、意識的にイエスを自分の王として認めていなくても、実際にイエスに従っているし、イエスに属していると言えます。けれども、イエスを王として認めていると言いながらも、愛に生きていない人は、実際にはイエスに属しているとは言えないでしょう。

全能永遠の神よ、
あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、
すべてが一つに集められるようお定めになりました。
造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、
栄光を終わりなくたたえることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。