7月21日-7月27日(30週)

21日(日)年間第16主日

22日(月)聖マリア - マグダラ(祝)

23日(火)年間第16火曜日

  (聖ビルジッタ修道女)

24日(水)年間第16水曜日

  (聖シャーベル・マクルーフ司祭 )

25日(木)聖ヤコブ使徒(祝)

26日(金)聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ(記)

27日(土)年間第16土曜日

  (聖母の土曜日)

年間第16主日C年 ルカ10,38-42

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10,41-42

「仕えられるためではなく仕えるために」(マタ20,28)来られた主イエス・キリストは、多くの人々に奉仕して、いろいろな病気を患っていた人を癒したり、空腹の人々に食べ物を与えたり、悪の支配下にいた人をその束縛から解放したり、悲しんでいた人を慰めたり、恐れに満ちた人を励ましたりしました。ですから、マルタのように、完全な人間であるイエスの模範に倣って、全力を尽くして人に仕えることは、素晴らしくて、非常に良いものであるわけです。

けれども、その際に意識しなければならないことがあります。それは何かというと、人間の肉体的や精神的な必要性を完全に満たすことができたとしても、それだけは十分ではないということです。なぜなら、人間は、神の命にあずかって、神との愛の交わりに生きるために創造された存在ですので、この目的を達成しないかぎり、聖アウグスチヌスが言ったように、「決して憩うことがない」から、すなわち、完全に満たされることはなく、飢え渇きつづけるからなのです。

誰よりも、このことをよく知っておられるイエス・キリストは、ご自分の奉仕によって、人の肉体的な必要性と精神的な必要性を満たそうとしただけではなく、何よりも、それによって神の愛を示して、この人の心を神に向けさせようとされたのです。

「マリアは良い方を選んだ」とは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」ことによって、自分の奉仕や他のものだけではなく、マリアは自分自身をイエスにささげて、イエスと交わり、そして、イエスを通して、神ご自身と交わっていて、イエスが一番与えたかった賜物、と同時に人間が一番必要としている恵みを、受けていたということなのです。

さて、私たちは、マリアのように、イエスとの静かな時を過ごすことによって、神の愛と神の命を受け入れて、マルタのように全力を尽くして人に仕え、この人たちに神の愛を示し、彼らの心を神に向けさせることによって、最高の愛を実践することができますように祈りましょう。

恵み豊かな神よ、
あなたを仰ぎ見る民に、
聖霊を惜しみなくお与えください。
信仰、希望、愛に燃えて、
いつもあなたのことばに従うことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第15主日C年 (ルカ10,25-37)

「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」ルカ10,36-37

イエスを試そうとした律法学者は、永遠の命への道をよく知っていました。要するに、永遠の命を受けるために、神と人間を愛すること以外に何もないということを、よく知っていたということです。と同時に、自分がこの道を歩んでいないこと、特に隣人を愛していないということも知っていたので、自分を正当化するために、隣人とは誰であるかを知らないと言ったのです。恐らく、この律法学者と同じように、また、イエスが語ったたとえの祭司とレビ人のように、正しいことを知っていても、それを行わない人が大勢いるのではないかと思います。また、彼らと同じように、この状態の本当の理由を探って、見出した問題を解決する代わりに、いろいろな言い訳をする人々も少なくないでしょう。

恐らく、律法学者は、聖書を研究したり、それを教えたりしたので、神殿で仕えた祭司とレビ人のように、神を愛していると考えていたのでしょうが、彼らが隣人を愛していなかったことは、神をも愛していなかったという事実を表していたのです。なぜなら、聖ヨハネが教えているように(1ヨハ4,20)、神を愛している人は、隣人をも愛しているからなのです。実は、神と隣人の愛の掟は、別の掟ではなく、一つの愛の掟の裏表であると言えると思います。神を真に愛している人は、隣人をも愛しているだけではなく、隣人を真に愛している人は、それを意識しなくても、実際に神をも愛しています。誰かが、隣人に対する自分の愛を深めたいと思うならば、神への愛を深めるように努める必要があります。同じように、神への愛を深めるために隣人への愛を深める必要があります。

私たちは、相手の真の素晴らしさ、真の価値を知れば知るほど、ますます深く愛するようになりますので、神の本質と同時に、人間の本質の完全な現れであるイエス・キリストをより深く知ることによって、私たちのキリストに対する愛だけではなく、父である神に対する私たちの愛、また、隣人に対する私たちの愛が深まります。ですから、ますます大きな愛に満たされて生きるために、イエス・キリストをもっと知るように努める必要があるわけです。

けれども、愛は、何よりも、実践されることによって発展しますので、私たちの現在の愛がいくら小さいものであっても、良いサマリア人のように全力を尽くしてこの愛に生き、それを実践しなければならないのです。

すべてを照らしてくださる神よ、
あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
真理の光を輝かせてくださいます。
洗礼を受けたすべての人が、
信仰に反することを退け、
キリストに従って生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第14主日C年 (ルカ10,1-9)

「主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」ルカ10,1

父である神は、すべての人々を愛しておられるがゆえに、すべての人の救い、すなわち、すべての人々が愛をもって神の愛に応えて、神との愛の交わりの内に永遠に生きることを、求めておられます。この望みを実現するために、御ひとり子をこの世に遣わしてくださいましたが、その前に、ご自分のわざと預言者たちの活動を通して、救い主の到来を準備してくださったのです。

イエス・キリストは、このような神の働きに倣って、ご自分が行く予定のところに、ご自分の弟子を遣わして、救い主と出会うために最終的な準備をさせました。その際、イエスは弟子たちの働きの主な内容を教えてくださいました。それは、遣わされた先の人々のために平和を願うこと、その所の病人を癒すこと、「神の国が近づいた」と宣べ伝えることでした。

真の平和とは、すべての人々が心の奥深いところで求めている完全な幸福ですので、人のために平和を願うとは、実際にこの人のために最高の幸福を求めることなのです。病人を癒すことは、隣人への愛の実践の一つの例です。そして、「神の国」つまり「神の支配」を受け入れることは、神の愛の交わりへの招きを受け入れることです。

人間は、神や他の人との正しい関係に生きるとき、つまり神や他の人と愛の絆によって結ばれているときだけ、真の幸せを味わうことができますので、「病人を癒す」ことと、「神の国を宣べ伝える」ことは、真の平和への道を示すことであり、真の平和を実現することなのです。

確かに、神と隣人への愛に生きることは、時に、難しいか、時に、まったく不可能に見えることもあるでしょうが、イエス・キリストがご自分の死と復活によって、神と隣人への愛に生きることだけではなく、敵に対する愛に生きることさえ可能にしてくださったのです。

洗礼を受けて、イエスの弟子となった私たちも、七十二人の弟子と同じように、すべての人々のために平和を願って、愛に生きることによってそれを実現するように呼ばれています。私たちはイエス・キリストが与えてくださる愛の力によってこの使命を果たしながら、イエスとの交わりを深めることができますように。そして、愛に生き、平和を実現する人々がますます増えますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは、倒れていた世界を、
キリストの死によって
新しいいのちに立ち直らせてくださいました。
信じる者を罪の束縛から解放し、
終わりのない喜びにあずからせてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。