10月13日-10月19日(42週)

13日(日)年間第28主日

14日(月)年間第28月曜日

  (聖カリスト1世教皇殉教者)

15日(火)聖テレジア -イエスの- おとめ教会博士(記)

16日(水)年間第28水曜日

  (聖ヘドビッヒ修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ)

17日(木)聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者(記)

18日(金)聖ルカ福音記者(祝)

19日(土)年間第28土曜日

  (聖ヨハネ・ブレブーフ 聖イザーク・ジョーグ司祭と同志殉教者、聖パウロ -十字架の- 司祭)

年間第28主日C年 (ルカ17,11-19)

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」ルカ17,15-16

感謝の念は、人間が他の人から何らかの形の助けを受けた際、例えば、何らかの奉仕をしてもらったとか、何らかの良いことを言ってもらったとか、必要としていた物をもらった際に浮かぶ感情なのです。しかし、この感情が起こるかどうかは、また、その感情の程度は、私たちがこの助けをどのように受け止めるかということに依るのです。

相手からいただいたものの実際の価値や、そのものに対する私たちの客観的な評価よりも、助けてくださった相手の動機や努力についての私たちの考えの方が、感謝の念が起こるかどうかに関して決定的なものです。たとえ、相手から頂いたものや助けは、大きな価値のあるものであると考えても、この人がこのようにしたのは、自分の義務だったからとか、他に選択がなかったからとか、それとも、自分のために何らかの利益を求めたからとかと考えたならば、感謝の念が浮かばないでしょう。けれども、頂いたものや助けの価値がそれほど大きくなくても、相手が全く自由に、何らかの隠した目的のためではなく、完全に無償で、無条件で私たちを助けてくださったという確信が強ければ強いほど、感謝の気持ちは大きくなるものです。私たちを助けることは、助けてくださった人にとって簡単なことではなく、相手により大きな努力や犠牲を求めたものであった、つまり、相手が私たちを助けるために、より大きな代価を支払わなければならなかったということが分かれば、感謝の気持ちがさらに強くなるのです。

考えてみれば、神は、いつも私たちのために最善の働きをされるし、最高の価値のある賜物を与えてくださいます。それをなさるのは、そうする義務があるからではなく、全く自由に、また、完全に無条件で、ただ私たちを愛しておられるがゆえに、私たちの善、私たちの幸福を求めておられるからです。私たちに対する神の愛には、どれほど大きな苦しみが伴っているか、つまり、神が私たちを助けるのに、どれほど大きな代価を支払っておられるかということが分かるためには、十字架に付けられた御子、イエス・キリストの姿を見るだけで十分なのです。

私たちは、神から与えられている助けの真の価値とその性質を見出し、神の愛の偉大さを意識することによって、大きな感謝と喜びに満たされて、神のもとに近づき、神との交わりを深めることができますように祈りましょう。

すべてを治められる神よ、
あなたは先にわたしたちを愛してくださいました。
この愛に支えられるわたしたちが、
いつも心から兄弟に仕えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

 

 

10月6日-10月12日(41週)

6日(日)年間第27主日

7日(月)ロザリオの聖母(記)

8日(火)年間第27火曜日

9日(水)年間第27水曜日

    (聖ディオニジオ司教と同志殉教者、聖ヨハネ・レオナルディ司祭)

10日(木)年間第27木曜日

11日(金)年間第27金曜日

    (聖ヨハネ23世教皇)

12日(土)年間第27土曜日

    (聖母の土曜日)

年間第27主日C年 (ルカ17,5-10)

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」ルカ17,5-6

自分たちの信仰が小さすぎると思った使徒たちは、イエスにそれを増してくださるように頼みました。その依頼に応えてイエスが言われたのは、彼らの信仰の本当の問題というのは、その大きさではなく、その質、つまりそのあり方であるということでした。

その12人の使徒は、自分たちの家とか仕事とか、つまり今までの生き方を捨てて、イエスの呼びかけに応えて従ったほどに強い信仰を持っていました。けれども、彼らが信じたのは、メシアとしてイエスがいつか必ず王になるということと、イエスに従えば、その権力や富や名誉に自分たちもまたあずかることができるということでした。彼らにとって、イエスを信じてイエスに従うというのは、自分たちの野心や欲望を満たすための手段であったわけです。

正しい信仰のあり方を説明するために、イエスは謙遜な僕について、たとえを語りました。真の信仰を持っている弟子は、このたとえの僕が主人に仕えたように、キリストに仕えます。それは、キリストが私たちの奉仕を必要としているからとか、私たちを奴隷にしたいからとかではありません。キリストに仕えることによって、人は自分の能力や時間だけではなく、自分自身をキリストに奉献するのです。

実は、キリストにとって私たちは僕ではなく、友なのです(ヨハ15,15)。そして、イエスは私たちの奉仕を受けるだけではなく、自ら私たちに仕えてもくださるのです(ルカ12,37)。それは、ご自分の命を与えてくださったほど献身的な奉仕だったのです。

そのような相互の奉仕の目的というのは、より楽な生活を互いに送るような利益ではなく、永遠につづく相互の一致なのです。私たちはキリストの奉献を受け入れ、自分自身をキリストに完全にささげたら、イエスと一つになるのです。そしてイエスと一致することによって、父である神の命にあずかり、神の愛に生きるようになるのです。それこそが、真の信仰の最終的な目的であるのです。

全能永遠の神よ、
あなたの恵みは限りなく、
人の思いをはるかに越えて世界の上に注がれます。
わたしたちを罪の重荷から解放し、
まことの自由に導いてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第26主日C年 (ルカ16,19-31) 

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」2コリ8,9

お金そのものは、決して悪いものではありませんし、お金を全然持っていないよりは、持っていた方がいいに決まっています。けれども、お金を持っている時、特に必要以上に持っている時には、それに伴う危険性を意識して、害を受けないように気を付ける必要があると思います。

お金に関する危険性は沢山あるでしょうが、その内の一つについてだけ考えてみたいと思います。お金は、それを持つ人にいろいろな可能性を与えますが、その全ての可能性がこの人を生かすようなもので、この人を本当の幸せに近づかせるようなものであるわけではありません。そのために、いろいろな可能性の中から、正しい可能性を選ぶための確かな基準が必要です。

このような基準がなければ、お金を持っている人は、心の本当の飢え渇きを満たすために必要なものというよりも、単にお金で買えるようなものを求めるようになり、お金で買うもので満たすことのできない心の望みを無視し、自分の欲望を優先してしまう恐れがあるのです。

そうなると、お金で買えるようなもので欲望を満たし、一時的に満足を得て喜びを感じることができますし、暫くの間、飢え渇く心の叫びが聞こえなくなります。けれども、このような気持ちが過ぎたら、満たされたはずの欲望は前よりも大きくなりますし、心の飢え渇きも大きくなるのです。そのために、少しでも満足や喜びを楽しめるように、また、心の叫びを聞こえなくするように、ますます沢山のものが必要になりますので、このように生きている人は、贅沢しても沢山のものを集めても、本当の豊かさ、つまり、心を満たし人間に真の幸福を与える豊かさを、知らずに生きることになるわけです。そのような態度を変えない人は、集めたものを何時か必ず失いますが、心の飢え渇きは永遠に満たされないままに残るのです。

裕福な人も貧しい人も、イエスの模範や教えを基準にして生きることによって、心が満たされ、本当に豊かで幸せな人生を送ることができますように祈りましょう。

全能の神よ、
あなたのゆるしは限りなく、
そのあわれみはすべてに及びます。
あなたを探し求める人に恵みを注ぎ、
永遠の喜びを与えてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

年間第25主日C年 (ルカ16,1-13)

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ルカ16,10

人間の財産や富というのは、必ずしもお金のことではありません。人によってそれは体力や体そのものであったり、いろいろな才能、能力、経験や学歴であったり、仕事や社会的な地位、また、いろいろな人間関係などのようなものであったりします。あなたの財産や富は、何でしょうか。また、あなたはそれをどのように、何のために用いているのでしょうか。

多くの人は、自分の財産や富が自分のもの、例えば自分が働いて手に入れたものですので、それを好きなように使う権利があると考えているようです。このような考えに従って、自分の富を自分のためにだけ利用する人は、そんなつもりがなくても、いつの間にか自分の富に仕えるようになって、この富によって支配され、場合によっては滅ぼされることさえあるのです。

イエス・キリストが私たちに教えているのは、私たちが持っているすべての富は、この世界を創造してくださった神からいただいたものであるということです。従って、神こそが、私たちが持っている財産や富の本当の所有者であって、私たちは、その富の管理者にすぎないわけです。神がこの賜物を何らかの目的のために与えてくださったので、自分の財産や富の最も賢明な扱い方というのは、それを私たちに委ねた神の意向に従って管理することなのです。最終的に、神は私たちのために、私たちが愛に生き、私たちが愛において成長することのみを求めておられますので、任されている財産を神の望みに従って使うとは、それを自分のためにだけではなく、他の人のためにも用いるということなのです。

イエス・キリストは、このように教えただけではなく、ご自身が正にその通りに生きておられたのです。実際に、イエスはこのように生きられたからこそ、完全な人になり、すべての人のための救いの源になられたのです。

イエスの模範と力に支えられて、私たちは世界の常識に逆らって、自分の財産を父である神の望みに従って管理することができますように。そしてそれによって私たちが生かされるだけではなく、私たちが出会う多くの人々も生かされますように祈りましょう。

ひとり子を与えるほど世を愛された父よ、
あなたは愛のおきてによって、
すべてを完成に導いてくださいます。
わたしたちが互いに愛し合うことによって、
人々にあなたの愛をあかしすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 

9月15日-9月21日(38週)

15日(日)年間第24主日

16日(月)聖コルネリオ教皇、聖チプリアノ司教殉教者(記)

17日(火)年間第24火曜日

  (聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士)

18日(水)年間第24水曜日

19日(木)年間第24木曜日

  (聖ヤヌアリオ司教殉教者)

20日(金)聖アンデレ金と同志殉教者(記)

21日(土)聖マタイ使徒福音記者(祝)