受難の主日C年 (ルカ19,28-40; ルカ23,1-49)

「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」ルカ23,33-24

イスラエルの長老たちや祭司長、また、律法学者たちは、自分たちが慣れ親しんでいた生き方を守るために、イエス・キリストを犠牲にすることにしました。ローマの総督であったピラトも、自分を守るために、自分の判断に逆らって、イエスに死刑の判決を下したのです。この人々は、特別に悪い人であったというよりも、程度が違っても、非常に多くの人々の生き方、つまり、自己中心的で、他の人に害を与えても、自分の利益のみ求めている人々の生き方を表しているのです。

イエス・キリストは、それと全く異なる生き方をされることによって、私たちに、父である神が求めておられる生き方、人間にとって最善で、人間を生かす生き方を表してくださるのです。イエスは、苦しみや死を前にしても、自分の身分を否定することなく、父である神から与えられた使命を裏切ることがありませんでした。大きな苦しみの最中にあっても、ご自分のことよりも他の人のことを考え、ご自分の利益のために他の人を利用することなく、ご自分が損をしても、苦しんで命を失うことがあっても、他の人のために真の善を行っていました。つまり、どんな状況にあっても、どんな結果が生じても、イエスは必ず、神と隣人に対する愛に生きていたわけです。

私たちは、イエス・キリストが示してくださった神ご自身の愛に力付けられて、どんな状況においても、愛に生き、善を行うことによって多くの人々を生かすと同時に、自らもまた神ご自身の愛と命にあずかって、永遠に生きることができますように祈りましょう。

全能、永遠の神よ、
あなたは人類にへりくだりを教えるために、
救い主が人となり、十字架をになうようにお定めになりました。
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、
復活の喜びをともにすることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第5月曜日C年 (ヨハ8,12-20)

「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」ヨハ 8,12

人間が長い間暗闇に留まると、光を求めても、明るみに出るのを怖がるようです。同じように、罪に生きている意味で、霊的な暗闇に生きている人は、心の奥深い所で、正しく生きる意味で光を求めても、罪の束縛から自由になることや正しい生き方を身に付けることに伴う、労苦や他の苦しみを恐れているために、霊的な暗闇に留まるのです。

キリストの光を受け入れた人々が、この恵みに忠実に生きることによって、イエス・キリストとともに光に生きることの素晴らしさを表して、暗闇に留まっている人を勇気づけ、世の光であるキリストのもとに導くことができますように祈りましょう。

恵みの源である神よ、 
豊かな祝福でわたしたちを満たしてください。
わたしたちが、日々罪に死んで新しいいのちに生き、 
栄光の現われを待ち望むことができますように。 
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第5主日C年 (ヨハ8,1-11)

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリ3,8-9

イエスと出会う前にパウロは、律法に逆らって罪を犯す人が必ず罰せられると考えていました。そして、この罰を恐れて、律法を守るように一生懸命に努力していたわけです。けれども、そのような動機は十分ではありませんでした。時に、律法に逆らう欲望の方が、罰に対する恐れよりも強かったので、この欲望に強いられて、自分の意志に逆らって、罪を犯すことがあったようです。律法は、パウロの罪を現わすことができても、彼をこの罪から守ることができなかったのです。

イエス・キリストと出会うことによって、パウロはまず次のことを知りました。すなわち、神は、その部下に対して横暴を極めている法律制定者のように、人間の現状を考えずにいろいろな掟を押しつけて、それに従わない人を罰するような方ではなく、その子どもを愛している父であり、いろいろな掟によって、幸せと豊かな命に導く善が何であるか、また、不幸と滅びに導く悪が何であるかを教え、私たちを正しい道、つまり幸せと豊かな命に辿り着ける道に導いてくださる方であり、この道からそれる人を罰することによってこの人の苦しみを増すのではなく、正しい道に戻るように励まし、力付ける方であるということです。この事実を知ったパウロは、罰に対する恐れから解放されましたが、パウロを罪の支配から解放したのは、イエスに対する彼の愛なのです。

パウロは、イエスの素晴らしさとイエスの愛の偉大さを知ってから、自らイエスを愛するようになりました。そしてその愛のゆえに、彼は何よりもイエスと共に、イエスの愛に忠実に生きることを求めるようになりました。この望みは、今まで得たものを保ちたいとか、苦しみを避けたいとか、自分の命を守りたいというような望み、つまり多くの場合に罪の原因となっていた望みよりも強いものでしたので、パウロはどんな状況においてもイエスと共に生き、イエスに従うことができました。イエスご自身が、父である神が示してくださった道だけを歩む方ですので、イエスに従うことによってパウロは、永遠の命と最高の幸福に導く道を歩むことができたわけです。

全能の、神である父よ、
御子キリストは、人々を愛してみずからを死に渡されました。
わたしたちも、この愛のうちに力強く歩むことができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第4主日C年 (ルカ15,1-3.11-32)

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ15,31

ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。

考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が、私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、私たちが罰に対する恐れや何らかの報い欲しさで忠実な奴隷になるためではなく、愛に満たされた神の子になるためなのです。神が求めておられるように生き、神が示してくださった道を歩む人は、必ず父である神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い人になるものなのです。ですから、他の人に対して無慈悲な態度をとり、自分の行いに頼る律法主義者になっていたファリサイ派の人たちは、掟を守っているように見えても、実際に神がこの掟によって示してくださった道を歩んではいなかったということが分かります。

私たちは、ファリサイ派の人たちのように正しく生きようとしていても、神を愛するようにならずに、神と共にいることが私たちにとって何よりも大きな喜びにならないならば、たとえ神の国に入ったとしても幸せにはなりません。なぜなら、神の国というのは、食べたり飲んだりすることや他の手段によって体の感覚を喜ばせるところではなく、神と共にいて、神の愛と命にあずかる状態であるからです。

私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストがご自分の言葉と行いを以て示してくださった道を歩むことによって、神の愛といつくしみをますます深く知り、神に対する信頼と神との愛の交わりを深めることができますように祈りましょう。

聖なる父よ、
あなたは御子の苦しみと死によって、
ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。
キリストを信じる人々が、
信仰と愛に満たされ、
主の過越を迎えることができますように。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

四旬節第3主日C (ルカ13,1-9)

 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ13,3

正しく生きる人であっても、正しくない生き方をしている人であっても、おそらく、世の終わりまで他人の悪い行いやいろいろな事故によって、様々な害を受けることがあるでしょう。つまり、私たちは、いくら気をつけても、どんなことをしても、そのような苦しみを完全に避けることができないということです。

けれども、そのような苦しみを避けることができなくても、私たちは出逢う悪や苦しみによって滅ぼされること、また、命と最高の幸福の源である神から切り捨てられるというような、究極的な苦しみと同時に絶対的な悪を避けることができます。そのために必要なのは、悔い改めなのです。

悔い改めるということは、メタノイアをすること、つまり自分の考え方や価値観を正すということなのです。正しい価値観を持つということは、悪を悪として、すなわち自分に害を与えるものを害を与えるものとして認め、善を善として、すなわち自分を生かすものを自分を生かすものとして認めることなのです。

それは、簡単なことに見えるかもしれませんが、実際には難しいことなのです。なぜなら、私たちは互いに矛盾している情報を与えられていますし、多くの場合は善や幸福を楽しみや快楽と間違えて、物事の表面的な魅力や偽りの価値によって騙されるため、なかなか正しい判断ができないからです。

私たちは、善を悪から見分け、自分を生かすものを、自分に害を与えるものや自分を死なせるものから見分けるようになり、正しく考え、正しい判断したいならば、私たちを創造してくださったがゆえに、誰よりも私たちのことを知っておられる方、しかも、私たちを愛してくださり、私たちのために善のみを求めておられる方の言葉に耳を傾け、この言葉に従う必要があるのです。

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛の業によって、
わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
いつもあわれみをもって助け起こしてください。
聖霊の交わりの中で、
あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。