「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ(た)。

イエス・キリストがマリアの胎内に懐妊されたことは、聖三位の一者である御子が人間になった神秘、つまり、父である神と同じ神性を所有しておられる御子が人間性をとられた神秘なのです。イエス・キリストがマリアの胎内で神ご自身である聖霊によって宿られたとは、マリアの生みの子であるイエスには、父である神以外に父親がいないという意味です。「みことばは肉となられた」(ヨハ1・14)という福音記者聖ヨハネの言葉に基づいて、この神秘は、「受肉」と呼ばれています。御子の受肉について考えるときに、勘違いをしないように気を付けなければならないところがあります。それは何かというと、御子は人間性をとられて、有限の人間になったことによって、神性を失って、無限の神ではなくなったのではないということです。御子は、神性を失うことなく、人性を担われたのです。と同時に、御子は人間性を受けて、それを神聖なものにされたとか、また、他の方法によって、一般の人間が所有している人間性よりも優れたものにされたということもありません。したがって、御子はマリアの胎内に宿られたときから、真の神でありながら、真の人間です。御子とイエス・キリストは、同じペルソナ、同一の方ですので、イエス・キリストは理性的魂と肉体とから成る真の人間であると同時に、真の神である、人間性において、罪を除いて(ヘブ4・15)私たちと同一実体であるとともに、神性において神である父と同一実体であるということです。「第5番目の公会議である553年のコンスタンチノープル会議は、『聖三位の一者であるわたしたちの主イエス・キリストには唯一の自立存在(またはペルソナ)だけが存在する』と宣言しました。したがって、キリストの人性におけるすべては、単に奇跡にとどまらず、苦しみも、死さえも、その固有の主体である神的ペルソナに帰すべきです。「肉において十字架につけられたかた、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストは、真の神、栄光の主、聖三位の一者です』」。(カトリック教会のカテキズム468)

イエス・キリストにおいて神性と人間性がどのように結ばれているかということは、神秘的ですので、最終的に完全な理解は不可能ですが、受肉の目的、また、イエス・キリストご自身のことを理解するために、その関係について教会が教える幾つかのことを意識する必要があります。

御子は、受肉の神秘的な結合において取り上げられた人間性を消滅しませんでしたので、キリストの知性と意志の働き、また、人間的肉体のまぎれもない現実を認めざるを得ないのです。したがって、「神の御子が担われたこの人間的魂は、真の人間としての知識を備えています。人間的なものであるこの知識には限界があり、時空の中で存在するものとして、具体的状況に従って機能しました。このため、神の御子は人間となって、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(ルカ2・52)ることを受け入れたばかりか、人間である以上、経験によって学ぶべきことを尋ねたりしなければならないという人間の条件に従いました。」(カトリック教会のカテキズム472)同時に、イエス・キリストは、みことばと一つになっていたわけですので、神にふさわしいことを知ること、特に啓示しなければならなかった父である神ご自身のことや、神の救いの計画を知ることと、それを表わすこともできたのです。

神性と人間性という二つの本性を所有していたイエス・キリストは、「本性上二つの意志と二つの働き、すなわち、神としての本性と人としての本性によるそれぞれの意志と働きを持っていますが、いうまでもなく、二つの意志と働きは協調して、対立することはありません。したがって、人となられたみことばは、わたしたちの救いのために御父と聖霊とともに神として決定されたすべてのことを、御父への従順から人間としての意志によって受け入れられたのです。キリストの人間としての意志は「神としての意志に従い、抵抗も反対もせず、かえって、この全能の意志に従属しています」。(カトリック教会のカテキズム475)

イエス・キリストの体は、真の人間の体ですので、それには限界があります。イエスは、私たちと同じように、疲れることや苦しむことがあったし、できないこともありました。また、年を取るにつれて、体力が衰え、いつか死ななければならなかったのです。同時に、「教会は、イエスの肉体において「本来見えないかたである神がわたしたちの目に見えるものとなられた」ことをつねに認めてきました。キリストの肉体の個人的特徴は神の御子の神的ペルソナを表しています。神の御子はご自分の人間としてのからだの特徴をまったくわがものとされたので、聖画像に表されたそれを崇敬の対象とすることができます。神の御子の聖画像を崇敬する信者は、『それに表現されているかたを崇敬している』のです。」(カトリック教会のカテキズム477)

ニケア・コンスタンチノープル信条に従って、私たちが宣言している通りに、御子が人間になったのは、「私たち人類のため、また、私たちの救いのため」なのです。人間を救うとは、罪によって神から離れていて、自分の力だけでは戻ることができない人間を神と和解させることです。この意味での救いを実現するためにイエスは、神の愛を現すことによって私たちを神のもとへと引き寄せています。それから、ご自分の生き方によって、神への道、つまり神の意志に適うために、神との一致に導く愛に根差す生き方の模範を示してくださいました。神の御独り子は、受肉によってご自分において神性と人間性を結びましたが、ご自分の十字架上の完全な愛のいけにえによってこの結合を完成させ、永遠に切れることのないものにしてくださいました。そのためにこそ、私たちは、イエス・キリストと結ばれることによって、神ご自身と結ばれることができるようになっています。最終的に、教会がカテキズムで教えている通りに、「みことばが人となられたのは、わたしたちを『神の本性にあずからせる』(二ペトロ1・4)ためです。『みことばが人となられ、神の御子が人の子となられたのは、人がみことばに結合することで神と親子の縁を結び、神の子となるため』(聖イレネオ)であり、『神の子が人となられたのは、わたしたちを神とするためなのです』(聖アタナシオ)。『神のひとり子は、わたしたちがご自分の神性にあずかることを望み、わたしたちの本性を受け入れて人となり、人間が神となるようになさいました。』(聖トマス・アクィナス)」(カトリック教会のカテキズム460)

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