「天地の創造主、 全能の父である神を信じます。」

カトリック教会カテキズムの最初の文書において教会は次のように宣言します。すなわち「神は、無限に完全、他によることのない至福そのものであって、ただいつくしみによる計画から、ご自分の至福ないのちにあずからせる人間を自由に創造されました。したがって、いつ、どこでも、人間に親身に心を配り、呼びかけ、人間が全力を尽くしてご自分を求め、知り、愛することができるよう助けておられます。」(カテキズム1)実は、私たちの信仰は、このような神の働きへの応えであり、私たちの人生に創造主が定めてくださった意義を与えるものであると共に人生に方向付けるものなのです。

人間は、神によって、また神に向けて、つまり神との愛の交わりにおいて永遠に生きるために創造された存在ですので、人間にとって最高の幸福であるこの愛の交わりが人生の最終的な目的であって、人間の心に深く刻まれている望みなのです。ですから、あらゆる時代、あらゆる文化において人間が多様な仕方で神を探求していることが見られているのは、不思議ではないでしょう。

しかし、神との内面的な繋がりは、人間にとって永遠に、しかも至福の内に生きるためにどうしても必要なものであっても、人間は、それを忘れることも、軽視や無視することも、さらに拒否することもできます。カテキズムによると、このような態度の原因として次のようなものが考えられます。「すなわち、世の悪に対する反発、宗教的な無知または無関心、世の思い煩いや富の誘惑、信者の悪い模範、反宗教的な風潮、ついには、恐れのために神から隠れ、神から逃げようとする罪びととしての人間の姿勢です。」(カテキズム29)

神への道を妨げることが多くても、神は常にすべての人々に呼びかけていますので、神を見つけることが誰にとっても可能なのです。「しかし、この探求は人間の側に、知性の絶え間ない努力と意志の正しさ、『まっすぐな心』、また、神のことを求める他の人々のあかしを必要とします。」(カテキズム30)

神は、私たちの現実を超えておられる存在ですので、この世のものを知るように、神を知ることができませんが、神を知るための幾つかの道、つまり神を知る方法があります。そのうちの一つとは、神が創造してくださった世界です。ローマ人の信徒への手紙の中に次のように書き記されています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(ロマ1,20)神を知るもう一つの「道」とは、神の似姿として、神に象って創造された人間なのです。カテキズムは、この二つの道について、次のように語ります。「世界と人間は、第一原因でも、究極目的でもないことを示します。両者は、初めも終わりもない存在そのものにあずかっています。ですから、これらの多様な『道』によって、人間は、いっさいのものの第一の原因、究極目的である一つの実存が存在するということを知ることができます。すべての人は、この実存を『神』と呼んでいます。」(カテキズム35)

世界と人間を知ることによって、人間はある程度まで神を知ることができても、それらには限界があり、以上述べた様々な障害が存在しているゆえに、人間が不確実、場合にとって、間違った結論を出すことがあります。幸いに、世界や人間という「道」よりも、神を知るもっと確実な「道」があります。それについて、ヘブライ人への手紙の中で次のように書き記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」あります。(ヘブ1,1-3)つまり、神は、イスラエル人の歴史の中でいろいろな人物や出来事をとおして、特に、「見えない神の姿」(コロ1,15)であるイエス・キリストにおいて、ご自分のこと、ご自分の性格や望みを世界に現してくださったということなのです。この神の自己啓示は、聖書の言葉と教会の聖伝によって、私たちに伝えられているのです。

私たちは、神について語るとき、または、神について読んだり、他の人の話しを聞いたりするときに、次のことを意識する必要があります。すなわち、神の現実と私たちの現実とは全く異なりますから、私たちがこの世の現実を描くために、また、自分の体験を表現するために作られた言葉をもって神の現実を相応しく表現することができないということなのです。例えば「神は光である」と言うときは、「暗闇」よりも、「光」の方が神の現実を正しく表す言葉であっても、神は、私たちが知っている太陽や火や電球の光と同じような存在であるわけではなく、ただ、光が暗闇を照らしているように、神が私たちの心の闇を照らしてくださるとか、命への道を示してくださるとか、また、光が生きるために必要であるように、神が生きるために不可欠な存在であるというようなことを象徴的に言うのです。神についての私たちの考えだけではなく、私たちの表現や私たちが持っている神のイメージも間違っていなくても、必ず不完全であり、神ご自身とは異なりますので、その考えや表現やイメージはどんなにすばらしいものであっても、神はいつもそれ以上にすばらしい存在です。したがって、神をよりよく知るようになるために、今持っている神についての考えやイメージに執着することなく、それらを変える覚悟を持つことが必要なのです。

私たちは、次のような神の本性を知り得ることができます。無から宇宙万物を創造してくださった神は、この世界の一部ではなく、この世を超越していて、世界や人間の存在と違って、神の存在は何にも依らない、つまり、神は、存在するために被造物から何も必要としていないし、いつも(過去、現在、将来)存在している方、言ってみれば、存在そのものであって、存在している全てのものに存在を与え、それを保っているのです。この意味で、神は絶対者であります。それだけ大きくて、素晴らしい宇宙を創造してくださった神は、全能者、つまり何でもできる方で、また、全知、何でも知っておられる方なのです。神は、創造してくださった世界を支え、ご自分が定めた目的に導いてくださる意味で、世界を支配しています。つまり、この世界と私たちの人生に関わっている方なのです。神は、「何か」とか「何等かの力」ではなく「誰か」、つまり意志、心と知恵のある「どなたか」、位格的な存在、ペルソナなのです。神は唯一でありながら、一つになるほど完全な愛によって結ばれている父と子と聖霊と呼ばれる三位の方の愛の交わりであると言えます。

神は、人間を愛しておられるゆえに、人間がご自分の愛の交わりに参与することを求めておられます。そのために、神は、人間が神を捜し求めるように、神との友情の関係を結びたいと求めるように、人間のために善を行い、人間に対する愛を表し、この望みを起こそうとしておられます。たとえ私たちは、神の愛を裏切って、神から離れたとしても、神は、私たちを愛し続け、いつも私たちの罪を赦して、ご自分との交わりに受け入れてくださる誠実で正しい方なのです。

神は、私たちの父であり、ご自分の命にあずからせることによって人間をご自分の子にしてくださり、人間が御独り子(イエス・キリスト)のような者になることを求めておられます。神は、誰よりも私たちの弱さを理解し、いつくしみ深く、忍耐強い方でありますので、神を恐れる必要がないし、いつも神の前に安心することができます。私たちを愛してくださる神は、人間のこと、つまり私たちの必要性や欲望、可能性や長所、また限界や弱点や欠点、それから喜びや悲しみなどを誰よりよく知っていて、私たちを最も相応しい道に導いてくださいますので、誰よりも信頼すべき方なのです。

神を信じるとは、神の存在を認めることとか、神のことを知るということだけはなく、何よりも、神を信頼して、神の言葉、神の導きに従って生きることなのです。神の言葉に聞き従うことによってだけ、人間は神との正しい関係に生きるし、神との交わりを深めることができる、つまり神が定めた人生の目的に達することができるのです。確かに、このような信仰は神が下さる恵みですが、この恵みを受けて、以上の意味で神を信じるために神のことをある程度まで知ることが必要ですので、神をもっとよく知るように、つまり神に対する自分の理解を深め、それを正すように常に努める必要があります。

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