2.ゆるすことの難しさ

おそらく誰でも、被害者が加害者をゆるさないゆえに元の傷よりも大きな害を受けることや、自分に傷を負わせた人をゆるし、この人と和解することによって大きな善が生じることを認めるのではないかと思います。考えてみれば、ゆるしと和解は健全な人間関係を作るために、また、神との正しい関係を作るためにどうしても必要なのです。ゆるし合うことができなければ、家族生活や、修道生活、また、あらゆる社会やグループの生活は有り得ないでしょう。

ゆるしの必要性を理解することは大事ですが、自分を傷つけた相手を実際にゆるすために、それから苦しい過去から解放されるために十分ではないことがあります。もうすでに相手をゆるしたと思っても、苦しい体験を忘れることができても、過去の苦しい体験は、私たちの人生に悪い影響を及ぼし続け、心の中で求めている善を実践することを不可能にすることがあります。そんなことは、精神的な傷はまだ癒されていないし、私たちは実際に加害者をまだゆるしていないということを現しているのです。これから、ゆるしや和解を妨げることについて、また、ゆるすことはなぜそんなに難しいかということについて考えてみたいと思います。

2.1 極端な態度

苦しい体験は、私たちの精神において実際の傷を負わせます。けれども、この傷が見えないがゆえに、それを目に見える体の傷と異なる扱いをします。私たちは、自分の体が傷ついたら、この傷の大きさに応じて相応しい手当をしなければならないということが分かっています。そうしなければ、傷は治らない場合があるだけではなく、消毒されなかった傷は段々と悪くなって、元々比較的に小さかった傷さえ、大きな問題になる恐れがあるでしょう。傷は治るために時間がかかりますが、この過程を早めるために、いろいろな薬を用いることができます。傷は大きければ大きい程、複雑な手当、場合によって専門の医者の助けや手術まで必要になります。体の傷に関するこのような常識は、残念ながら、精神的な傷に対して常識になっていないのです。

殆どの人は、精神的な傷を負わされた後に、この傷を手当する代わりに、この傷を無視したり、軽んじたり、忘れようとしたりすることによってそれを放っておくか、この傷を負わせた体験をいつも思い起こしたり、これについていろいろな人に話したりすることによって、この傷を常にいじるか、どちらかであります。どちらの場合も、心の傷が治りません。逆に、段々と大きくなって、この人の人生にますます悪い影響を与える恐れがあるのです。どちらにしても、加害者をゆるすことやこの人と和解することは不可能です。なぜなら、完全なゆるしは、精神的な傷の癒しの結果であるからです。

2.2 被害者がゆるさないことから期待する偽りの利益

ゆるすことが難しくなっている一つの理由とは、被害者が加害者をゆるすよりも、ゆるさない方が、自分にとって有利なことであるという間違った確信を持つことなのです。多くの人は、加害者をゆるさず、受けた傷が治らないように、それを常にいじって痛いまま保った方が、自分が目覚めていることができるし、苦しい記憶を持ち続け、そのときの感情を抱き続けたが方が、より大きな力を出すことができるので、その意味で新たな攻撃に立ち向かうためによりよい準備ができている状態に生きることによって、新たな傷を負わせられないように、自分を守ることができると思っているようです。

確かに、このような興奮状態は、急に起こった危険性に早く反応するために必要です。けれども、そのとき、体の中でアドレナリンが血中に放出されて、血圧を上げ、心臓が普段より早く働き、血液が普段より早く回りますので、この異常の状態が長く続くと体にも精神にも大きな害を与えるのです。ですから、苦しい体験の記憶を保つことや精神的な傷をいじることは、自分を防衛するのではなく、ある意味で、自分を拷問すること、自分を苦しめることだけであると言えると思いますが、被害者は、この事実に気づかずに、この苦しい状態を保つことが自分の防衛になっていると考えているかぎり、加害者をゆるすことができないでしょう。

苦しい体験をした人々の中に、自分の苦しみを賠償することや、傷つけられたことによって損失したものを返すことができるのは、加害者だけであると思う人もいます。このように考えている人々にとって、加害者をゆるすことは、この人が賠償するように要求すること、また、損失したものを返すように要求することを諦めること、結果的に、損失したものがいつか返されるという希望を捨てることを意味するのです。ですから、このように考えている人にとってゆるすことは非常に難しいものになっているわけです。けれども、実際に、加害者が、例えば何かの物質的なものを盗んだ場合、それを返すことができても、はるかに大きな問題となっている損失、つまり安心感や自尊心のような精神的な損失を返すことができないことが殆どです。加害者以外の人々の中に、精神的な損失を補うことのできる人々が大勢いるはずですが、加害者にこだわりすぎて、ゆるさないことによって加害者との不健全な絆を保ち続ける被害者は、他の人の助けを受け入れることができない恐れがあるのです。

被害者は、加害者をゆるさないことによって、この人をコントロールしているような気持になることがあります。特に、自分の加害者に対して全く無力であり、復讐することも、賠償を要求することもできない子どもがそのような態度をとることが多いようです。被害者は、自分が加害者をゆるすかどうかということは、自分にのみかかっていますので、加害者が自分よりも強くても、ゆるされないことに関して無力であると考えています。被害者にとってこの考えは、自分の苦しみを和らげる満足感やこの苦しみに耐えるために必要な力をもたらす自由の区間となっています。実は、被害者が加害者をゆるさないことは、殆どの場合、加害者に何の影響も与えませんが、被害者に必ず害を与え、この人の苦しみを伸ばすのです。けれども、苦しみが増えても、以上のような気持を味わうために、被害者は自分の態度を変えたくないかぎり、ゆるすことも不可能です。

前にも述べたように、自分の失敗や間違いを苦しい体験や加害者のせいにする人もいます。この人たちにとって、加害者をゆるすことは、自分の人生の責任を取り戻すことを意味します。より気楽に生きる可能性を与える言い訳を捨てて、この責任をとることは、精神的な傷の癒しのために支払わなければならない代価のようなものなのです。けれども、多くの人は、癒しがもたらす自由に伴うこの責任を恐れていますので、この代価を支払うことを拒否し、結果的にゆるさないことを選ぶわけです。

2.3 ゆるしの可能性

子どもの時に私たちは、非常に無力で、多くの場合、直面した問題を解決することができませんでした。負わされた不正や他の苦しみに対して、唯一できたのは、我慢することとか、叫ぶことや静かに泣くこと、また、誰かの慰めを得ることや、夢や幻想の世界に逃避することだけでした。おそらく、私たちを傷つけた人を無理にゆるすようにさせられたことがあっても、誰かに私たちの心の傷の手当をしてもらったことや、ゆるすことを丁寧に教えてもらったことがなかったのではないでしょうか。このような体験によって、本当のゆるしが不可能であり、自分の苦しみを和らげるためにできるのは、怒りや憎しみなどのような嫌な感情を抑圧することや、それを発散すること、または、自分の苦しみを代償することとか、慰めや励ましを追求することだけであるというような確信を持つようになりました。おそらく、そのような確信、逆に言えばゆする可能性を信じていないということは、以上に描いた態度をとる理由になっているでしょう。けれども私たちは、もはや子どもではありません。大人として、子どもよりも沢山の可能性がありますし、子どもよりも力強いのです。子どもの時に不可能なことは、今は可能です。ですから、大人として、子どものときに頼りにしていた手段にだけ留まるのではなく、問題の新しい解決の方法、精神的な傷の新しい扱い方を探さなければならないのです。

大人として、私たちは、昔よりも沢山の心の傷を癒やすことができますが、自分の力に限界があるゆえに、癒すために他の人の助けを必要としている傷もあります。また、精神的な傷があまり大きくて、それを癒すこと、結果的に加害者をゆるすことは、人間の力だけでは不可能な場合、つまり神の助けがどうしても必要になることもあるということを忘れてはいけません。精神的な傷の問題の唯一な解決である加害者をゆるすことは、負わされた傷によって程度が違っても、いつも敵に対する愛の実践なのです。このような愛は、例外なくすべての人々、つまり正しい人も、正しくない人も、被害者も、加害者も愛しておられる神の賜物なのです。あらゆる傷を癒すことのできるこの賜物を受け入れるために、神との交わりを深める必要があります。最終的に、私たちは、キリストによって神と和解し、神との正しい関係に生きるようになってから、イエスと同じようにあらゆるとがをゆるすことができるようになるのです(2コリ5,17-19)。

2.4 ゆるしに関する間違った考え方

多くの場合、加害者をゆるすことが難しくなっているのは、ゆるすとはどういうことであるかについて間違った考え方や確信を持っていることです。どのようなものがゆるしではないということを知ることによって、ゆるすことを難しくする、それともそれを不可能にする妨げを取り除くことが多いです。

2.4.1 「自分よりも強い人をゆるす意味がない。」

子どもが自分の権利や正しい被害意識を教えられることはまだめったにないことです。その代わりに、子どもが両親や先生や他の権力者に背いたときに、罪悪感や罪の意識を教えられるのは、ひんぱんにあることでしょう。そのような不従順のために罰せられることは常識になっていますが、自分の過ちを認め、反省し、謝った上にゆるしを願うならば、この罰を避ける可能性があります。このように、罰を免除してもらうためにゆるしを願うことは、実際に相手の権力や自分に対するこの人の支配権を認めることであり、この人の前にへりくだることなのです。おそらく、自分の権力を固めるために多くの支配者たちは、自分に逆らったことによって、自分の権威に挑戦したと思う人々が自分たちの憐れみを願うように、いろいろな仕方で彼らに強いることがあるでしょう。そのような場合、ゆるしを願うことは確かに、人を辱めると言えると思います。ですから、自尊心を持ち、自分の自由を大切にしている人がゆるしを願うこと、すなわち権力者の憐みを乞うことを嫌がるのは当然でしょう。

恐らく、私たちもそのような体験をし、そのような思いをしたことがあるのではないかと思います。その時、ゆるす人、つまり罰を免除する人は、私たちより強い立場の人で、罰を与える力のある人なのです。このような体験に基づいて、自分の加害者が自分より強い人であるならば、この人をゆるす意味がないと考えるようになっても不思議ではありません。なぜなら、元々この人を罰する力がないので、免除することもないからです。

このように理解されているゆるしは、傷つけることや害を与えることと何の関係もないことです。子どもや弱い立場にある人々は、自分の不従順によって両親や他の権力者を怒らせることがあっても、傷つけることがないので、不従順な人を罰するのを諦めるのは、自分の支配を確認し、それを強めるための手段にすぎないものなのです。したがって、このような意味でのゆるしは、精神的な傷の癒しの結果であり、苦しい記憶から被害者を自由にする、つまり加害者よりも、被害者が必要としているゆるしとまったく異なるものなのです。真の意味でのゆるすことは、決して罰を免除することではないのです。

2.4.2 「ゆるすことは、悪を軽んじることや加害者を無罪にすることですので、正義に反する。」

相手の過ちや不正をゆるすことは、事実に逆らって何の問題もなかったことにすることや起こった問題を無視するものであると思う人がいます。もし、ゆるすことは、このようなものであったならば、それは、確かに正義に反することであって、不正を行った人の責任をなくするものとして、人間の成長を妨げるものであったでしょう。確かに、その意味でゆるすよりも、相手のためにゆるさない方がいいでしょう。

考えてみれば、誰かが不正を行うことによって私たちに傷を負わせたならば、私たちは痛みを感じ、苦しんでいます。相手をゆるすことは、そのような事実に逆らって、私たちを傷つけた加害者の行いが全然悪くなかったとか、大した問題ではなかったということを宣言することではありません。また、私たちが誰かをゆるしたということは、この人の行いが起こした問題が解決されたとか、この人を無罪にしたゆえに、この人が自分の行動に伴う責任をとる必要がないということを意味するのでもありません。悪を行った人々は、被害者にゆるされなくても、ゆるされても、損害を賠償する義務や、行動を改める必要性が残るのです。けれども、それは、私たちではなく、彼らの次第です。彼らが法律を犯したならば、社会の一員として法律で定められた刑罰を受けなければなりません。私たちのゆるしは、それを免除するわけではないし、免除することもできないでしょう。

考えてみれば、悪い行いの責任を取ることを免除することは、決して良い教育ではありません。そんなことをすれば、いくら悪いことをしても、謝って、ゆるしさえ願えば、その行いの責任をとる必要がなくなるというような間違った確信を抱かせることになるでしょう。神が人間の罪をゆるすときにさえ、人は自分の行いの責任を取らなければなりません。というのは、私たちは罪を犯す時に罪の対象となっているものと不健全な絆を結び、このものとの依存関係に入ります。神にゆるされても、この不健全な執着が残りますので、神の助けに支えられながらも、この不健全な絆をなくし、自由になるように努めなければなりません。この結果と、この戦いは、私たちが取らなければならない責任なのです。

加害者をゆるすとは、決してその人に悪を行う許可を与えることではありません。加害者をゆるしても、私たち、また他の人がこれから傷を負わせることがないために、この人はこれ以上悪を行うことができないように、できること、つまり可能でありながら、正しいやり方でもあることをしなければならないのです。ヨハネ・パウロ二世は、教皇の暗殺を試みたアリ・アクチャをゆるしましたが、この人は自分にとっても、他の人にとっても危険な人であったわけですので、彼の釈放を依頼したことがありませんでした。

愛の実践である私たちのゆるしは、悪を行った人の回心を促すかもしれませんが、この人の回心を私たちのゆるしの条件にしてはいけません。つまり「あなたが謝って、二度とそんなことをしないと約束をするならば、ゆるしてあげる」というような言い方をしてはならないのです。なぜなら、このような条件に基づくゆるしは、前に語ったような罰を免除する意味でのゆるしであるだけではなく、私たちのゆるしは、この人にとって何の意味もないもので、この人が全然必要としないし、求めていないものであることもありますので、私たちは、この人の回心をゆるす条件にしている限り、ゆるすことができないからです。私たちのゆるしは、加害者にとって無意味なものであり、この人に何の影響も及ぼさないものであっても、私たちにとって決して無意味なことではありません。私たちのゆるしは、加害者にとって益になるという確信を持つことができませんが、私たちや私たちの周りにある人々の益になるという確信を持つことができるのです。このようなゆるしは、無条件のものであるのです。

2.4.3 「ゆるすことは、苦しい体験を忘れることである。」

多くの人がゆるすことができないのは、ゆるすために苦しい体験を忘れなければならないと思っているからです。というのは、彼らにとってこの体験を忘れることは、自分の人生の大事な一部を捨てると同時に、この体験に基づいて出来上がった自分の本性を失くすことなのです。そして、この体験を一生忘れることができないし、自分の本性も失いたくないので、ゆるすことができないという結論を出すわけです。

以上の考え方は、大きな誤解です。実は、苦しい体験を忘れることは、心の傷の癒しを促さないし、ゆるすことに全然役に立ちません。逆に、苦しい体験を忘れることは、ゆるすことを不可能にするのです。なぜなら、私たちは自分の苦しい体験を振り返り、この体験の様々な結果を見出すことによって、それが私たちに大きな苦しみのみならず、何らかの良い実をもたらしたことを知り、それを私たちの宝にして初めて、真の癒しとそれに伴うゆるしが可能になるからです。

復活したイエスの体に受難の傷跡があったように、私たちの心にも傷跡が残ります。この傷跡は、いつも私たちの苦しい体験を思い起こし続けるのです。けれども、私たちは、イエスがゆるしたように加害者をゆるすならば、イエスの受難の記憶と同じように、私たちの苦しい体験の記憶は、憎しみや妬みの源ではなく、愛と平和の源となるのです。古い傷の苦しみは、もはや私たちの人生を支配したり、自己中心的な行動をとらせたりすることなく、私たちを生かし、私たちの人生をより豊かなものにするのです。

2.4.4 「ゆるすことは、非常に強い意志を持つ人にだけ可能である。」

ゆるすことは、何もせず、何も言わずに無条件に不正やそれに伴う苦しみを受け止めることであると思う人々がいるようです。ゆるしのことをこのように理解している人は、人が加害者をゆるすために自分の苦しい運命を容認した上で、悪との戦いを諦め、苦しみを我慢しなければならないと思うので、当然ですが、このようなことは、我慢強くて、苦しみに耐え忍ぶことのできる人、つまり特別に強い意志を持っている人にだけ可能であるという結論を出すのです。したがって、自分がそのような人ではないと思えば、加害者をゆるすように試みることさえ無意味なものであると考えて、それを諦めてしまうわけです。ときに、自分の意志を強めるために、苦しい体験を何の抵抗もすることなく、黙って受けなければならない「神の意志」であるとか、忍耐強く背負わなければならない自分の十字架であるように考える人がいます。けれども、このようなことをしてはいけないのです。なぜなら、まず、ゆるすことは、何とか生き続けるために、負わされた苦しみを、勇士が持つような非常に強い意志によって、受け止めるようなものではないからです。それから、このような動機によって自分の意志を固めて、負わされた苦しみに耐え忍ぶことができても、そのような努力は、人の心を閉じ、精神的な傷の癒しを妨げ、真のゆるしが不可能になるからです。

真のゆるしとその実りは、強い意志に基づく人間の努力の結果ではなく、愛である神の働きの結果で、神の賜物なのです。不正や他の悪は決して神の望みではありませんので、苦しい体験をした人は、起こったことにおいて神の望みを見出すように努める意味がありませんが、私たちは、神の力によってどんな体験からも善を引き出すことができますので、このような望ましくない体験をどのように扱えば良いのか、出逢った悪からどのように善を引き出すことができるのかということを見出すために神の導きを探し求める意味がありますし、必要なのです。苦しい体験から生じた善を見出して、傷が癒されるならば、ゆるすために何の努力も必要がなくなります。なぜなら、そのときには、ゆるさない理由を見出せなくなるし、ゆるすことは当然のことになるからです。

2.4.5 「ゆるすことは、一回限りの決断である。」

幼稚園や学校で子どもたちが喧嘩したときに、多くの場合、先生たちは何が起こったかと調べずに、子どもたちの気持ちや起こったことの理解を尋ねずに、つまり子どもの心の傷を手当しないまま、「早く謝りなさい」とか、「相手が謝ったから、早くゆるしてあげなさい」とか、「早く仲直りしなさい」と言うことがあるでしょう。恐らくそのような体験に基づいて、多くの人にとってゆるすことは、一回限りの決断であって、最も大切なのは、「ゆるします」という言葉を述べることや他の方法によってゆるしたことを表現することです。ですから、この言葉が言えずに、すぐにゆるすことができないならば、今も、これからもゆるすことができないと思っているわけです。

けれども、真のゆるしとは、自分の本当の気持ちに逆らう決断の結果ではなく、傷つけられた心の癒し、つまり記憶や感情の癒しの結果であります。そして、この癒しは、傷の大きさによって長い時間やいろいろな努力を必要としている過程、しかも人間の様々な精神的、感情的なレベルで起こっている過程の結果なのです。多くの場合、傷つけられた人にできるのは、この過程を始めることです。私たちがこの過程を始めた一つの確かなしるしとは、私たちの祈りです。たとえ、「ゆるすことができますように」という祈りができなくても、「ゆるしたいという意欲が起こりますように」という祈りだけで充分なのです。私たちは、無理して「ゆるします」と言うことができても、これで問題が終わったと思って、傷つけられた心の癒しの過程をはじめないならば、このようなただ言葉上だけのゆるしは、真のゆるしを妨げるものになりかねないのです。

2.4.6 「ゆるすことは、弱さのしるしである。」

ある人がゆるしたくないのは、ゆるすことが自分の負けと加害者の勝利、と同時に自分の弱さと相手の優れた力を認めることで、戦うことや自分を守ることを諦めることであると思っているからです。ですからこのように考えている人にとって、加害者をゆるす人は、再び悪用されることや傷つけられることを自ら招くことになるわけですし、この人たちは、相手をゆるさないことによってだけ、つまり自分の負けや弱さを認めずに、相手に対する怒りや憎しみを保ちながら、戦いを続け、自分を守ることができるというような確信を持っていると言えるでしょう。

自分と自分が愛している人々、また、弱い人々を守ることは良いことで、必要なことですが、そのために人間は、怒りや憎しみ、またいろいろな不正な手段を必要としているのではありません。確かに怒りや憎しみは、力の源になりますが、同時に、人間の論理的に考える力や、判断力を衰えさせるものですので、怒りや憎しみに満たされた精神的な状態において人間は、目の前にある問題の正しい解決も、自分を守るための最善の方法をも見出すことができません。それから、このような力に支配されている人は、自己破壊の道を選ぶことも少なくないのです。

真の知恵や力は、自由と愛がもたらすものなのです。加害者をゆるすことによって、負わされた傷の支配から自由になることができますので、結果的に自分がおかれている状況を正しく理解することができます。同時に愛によって想像力が豊かになりますのでいろいろな可能性を見出すことも、最善の選択や判断をすることもできるのです。それだけではなく、心の癒しのもう一つ大事な結果として、私たちは、苦しい体験やそれによって受けた傷を自分の成長や周りの人々の善のために用いることができるということなのです。これこそ、真の勝利です。そのためにゆるさないまま生きることではなく、ゆるすことが真の力を表すものなのです。