キリスト者の祈り

導入  

古代教会時代から、”Lex orandi, lex credenti”と言われてきました。この表現を文字どおりに日本語に直したら、「祈りの掟(法則、ありかた)は、信仰の掟(法則、ありかた)である」、つまり、「人の祈り方が、この人の信仰の持ち方を表している」ということです。そのために、どんな宗教にも祈りがあっても、各宗教が異なるために、宗教によって祈りは異なります。もっと細かく言うと、人によって祈りが異なります。なぜなら、同じ宗教や信仰を持っていても、人によってその宗教の教えの理解や信仰の持ち方が異なるからです。結果的に、キリスト者の場合も、同じ洗礼を受けても、同じ教理を学んで、同じ聖書を読んでも、同じ信仰共同体に属していても、祈り方も、結果的に、生き方も異なっているキリスト者がいるわけです。

カトリック教会において、典礼という教会の正式的な祈り、つまり、教会の信仰を正しく表す祈りがあります。典礼に参加することによって信者は、正しい祈り方と同時に、信仰を学びます。実は、典礼は、理性的な次元のみならず、信仰が現している真実を実感させて、一人ひとりの信者の信仰を深め、信仰の持ち方を正します。それは、カトリック教会が信徒の典礼への参加、特に典礼の頂点である感謝の祭儀への参加をそれほど大事にしている理由の一つです。

確かに典礼は、祈りと信仰を学ぶ優れた場ですが、この恵みをできるだけ生かすために、信仰や祈りについて理性的なレベルにおいて勉強することは、必要です。これからキリスト者の祈りの本質について語りたいと思いますが、その前に、キリスト者の祈りの基礎となっている、人間に対する神の望みと、神が人間に与えてくださった望みについて簡単に話す必要があると思います。

神と人間の望み

私たちが、私たちに対する神の望みを知り得るのは、神ご自身が、ご自分の望みを啓示してくださったからです。言うまでもなく、イエス・キリストが、神の自己啓示の頂点ですので、人間に対する神の望みを知るために、イエスの行いと言葉を見ることは、一番確実な方法なのです。

 イエスは、ヤコブの井戸のところに座っておられたときに、一人のサマリアの女性が水を汲みに来ました。彼女との対話の中で、イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4,13-14)と言われたことによって、私たちが自分の経験からよく分かる事実、つまり、人間にはいくら努力しても満たすことのできない望みがあるという事実を現した後に、神には、この望みを満たすことができるということを教えてくださいました。けれども、このことを教える前に、この女性に向かってイエスは、「水を飲ませてください」(ヨハ4,7)と言われました。歴史的なレベル、またこの物語の文字通りの意味のレベルでは、旅で疲れていて、喉が渇いていたイエスは、喉の渇きをいやすために、汲むものを持っていた女性に水をお願いされたということです。けれども、霊的なレベルでは、イエスは、人間しか癒すことのできない渇きが神にあるという非常に想像しにくいことを現してくださったのです。

福音記者聖ヨハネが伝えている通りに、十字架にかけられていたイエスは、「渇く」と言われました。自然なレベルでは、この渇きは、イエスが受けた拷問によって生じたものでしたが、超自然なレベルでは、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」(ヨハ19,28)イエスは、ご自分の活動と教えによって神ご自身の渇きを現したことを告げたということです。

イエスの行いと言葉を知ることによって、神が人間からただ一つのことを求めておられること、つまり愛を求めておられるということが分かります。実は、神は、御自分の愛を分かち合うために人間を創造してくだいました。ですから、人間は、神の愛を受け入れて、愛を以て神の愛に応え、神との愛の交わりに生きるようになって初めて、創造の目的が実現されると同時に神の渇きが癒されるわけです。

人間にとって最高の幸福の状態でもある創造の目的を実現させるために、神は、無数の仕方で絶えず御自分の愛を表して、人間をご自分のもとに引き寄せてくださり、人間の心の中に御自分に対する愛を起こそうとしておられます。神は、私たちをご自分のもとに導くために、ご自分の愛を表してくださるだけではなく、私たちの内に働いて、私たちの心を神の方へ向けさせるためにいろいろな望みを与えてくださいます(フィリ2,13参照)。実は、「神を知りたい」とか、「神に近づきたい」や「神に祈りたい」というような望みだけではなく、「誰かを愛したい」とか、「誰かに愛されたい」、「誰かと繋がりたい」などのような望みは、神が人間の心の中で起こしてくださる望みであって、神の賜物なのです。人間は、このような望みに従って生きたならば、神の望みに応えて、神の渇きを満たすと同時に、自分自身の渇きが完全に満たされる状態にたどり着きますが、残念ながら、神が与えてくださった望みに従って生きる人が非常に少ないです。

神から離れたイスラエル人に向かって預言者たちは、次の言葉を述べました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」(エレ2,13)。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(イザ55,2)。この言葉は、昔のイスラエル人の問題だけではなく、多くの現代人の問題をも表しています。要するに、神を知らない人は、自分たちの心の望みを正しく理解できず、それを満たすことのできない仕方で満たそうとして、空しい努力をしています。正に、井戸のところでイエスと出会ったサマリアの女性は、不道徳的な生活をすることによって、つまり、神の望みに逆らうと同時に、自分に大きな害をもたらす生き方によって一時的に心の渇きが癒された気分になっても、また渇くようになっていたと同じようなことです。彼女は、このような無駄な努力をしたのは、他の方法を知らなかったからということをイエスが次の言葉を以て表してくださいました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハ4,10)。

イエスは、ご自分の行いと言葉によって、神の渇きを癒す方法を示してくださっただけではなく、人間の渇きを癒す方法を表してくださいました。最終的に、それは、神の愛を受けて、愛を以て、この愛に応えることですが、それが可能になるために、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハ7,37)というイエスの招きに応えて、イエスのもとに来ることが必要です。

結論から言えばキリスト者の祈りとは、生きた水、つまり神の愛を願い求めてイエスのもとに来ることと同時に、この水を飲むこと、つまり、イエスとの交わりを持つことによって、父である神ご自身との愛の交わりを持つことなのです。

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